週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#120-’07. 「別荘生活」 と 「田舎暮らし」 の違い

2007年05月13日 00時45分00秒 | 別荘生活
 このスレッドを書くに当たってアップロードするか長いこと躊躇した。
至って個人的な価値観に基づく身勝手な理屈であるからである。
この記事を読んで気分を損なう人も、気持ちを害される人も居るかもしれない。
特に八ヶ岳周辺や蓼科周辺で永住して田舎暮らしをしている人には許せない暴言であるかもしれない。
そのような方々にはご容赦頂くとして、先に進む事にする。
別荘を持って日増しに強くなる感情として、特異な考えの変人も存在するという事で、この記事を投稿する。

八ヶ岳、南アルプス麓の地や蓼科に別荘を持つ事とこの土地に永住の居を構える事は根本的に異る。
八ヶ岳周辺に限定したような書き出しだが管理別荘地とその周辺の田舎では何処でも当てはまると思っている。
この両者は似て非なるモノである。
立地条件などは同じであるが、コンセプトが異なるのである。
肌で感じる自然も目にする季節季節に織り成す自然も両者は同じである。
しかしながら、一見同じように見えるが、その本質は全く別なものである。


 ○ 子供が幼い若い内に生活の糧である職をこの地で得て、自然豊かなこの地で生活する者。

 ○ 自然豊かな地に家庭を持ち、都会へ通勤する者。
   (軽井沢から新幹線通勤が良く話題に上る)

 ○ 職を離れ、第二の人生を田舎暮らしを始める者。

 ○ 都市部に職を持ち、生活の本拠地も街にあり、気が向いたときのみ別荘に来る者。

この地に生まれ育ち、家庭を持った者以外は、他からの移住に他ならない。
移住者はこの土地の景観などにほれ込んで移り住んだわけである、即ち永住である。
自分の事で言えば、この地がいかに大好きでも将来的に永住する気持ちはない。
時と共に心も変化する事があるから未来永劫にこの考えが変わらないとは断言できないが、
現時点では永住する気はない。
前の三者の方は、自然をこよなく愛し自然豊かな大地に育まれた生活をしたいのである。
実生活が深くこの地に根を張り、この自然と共に大きく成長したいのである。
この自然が育んだ地域社会に溶け込みたいのである。
生活を取り巻く諸条件を勘案してもこの地の自然や景観を最優先事項としたわけである。
その気持ち自体は大変良く理解できる。
自分自身が別荘地としてこの分譲地を購入して、この地に家を建てたのであるからして相通じる所はあるわけである。
この相通じる共通項から別荘生活と永住の田舎暮らしが同一視されるのである。
八ヶ岳を愛し、蓼科を愛し、この信州の地を愛する事は同一である。


一休み一休み。
今朝の台所の一輪挿し。
赤い瓶の卯の花が大きくて、バランスが悪いとの事で急遽別の一輪挿しも右手に。

(東京の台所の花)

では、何ゆえに異なるのであろうか。
それは、実生活虚生活とでも言えようか。
家庭を持ち、この地に溶け込み、地域社会と一体となる実生活に他ならない永住者。
数日ないしは数週間この地に居を構えるだけの別荘居住者は、虚か無の生活である。
すなわち、地域社会とも隔絶して実生活が伴わない虚生活が別荘生活の本質である。
別荘生活が実生活を伴わない事こそが、別荘の別荘たる価値が存在する事に他ならない。
実生活から派生する諸々の事柄からの逃避ないし隔絶である。
生活すれば義務と権利が生ずるのは自明の理である。
現実社会からのその義務を最小限にして、つかの間の隠遁生活過ごすのである。
従って、仕事も忘れ現実的な事から距離を置く事に価値を見出す。
この無の世界が人の心に安らぎを与え、疲れた心を癒すのである。
即ち、非日常性の世界である。
永住してしまうと非日常性の世界が日常にかわり、心を癒す空間が無くなってしまうような気がしてしまう。
実際、永住した事がないから、現実は分からないが非日常性を大切にしたい気がする。
実生活が伴っていては、決して味わう事の出来ない、癒しの世界である。
この安らぎこそが、次の実生活への活力・原動力を生み出すのである。


二休み。
ジャーマンアイリスが一輪咲きだしたと、家内が言っていた。
勿論、此れはジャーマンアイリスではありません。
アヤメだそうです。
玄関に飾った今朝の花です。

(東京の熱帯魚脇の玄関の花)


アクセスでも書いてはいるが、虚の世界にドップリ浸る為に現実社会を連想させるものは目にしたくないのである。
近場では、別荘地内の洗濯物や別荘地内の家庭菜園。
少し離れたところでは、農家のビニールハウスや単一作物ではない畑など。
勝手な言い分ではあるが心の中に自然と湧き上がって来た自分が描く理想である。

現実社会を連想させない社会を求めるのであれば、人の居ない山奥に篭ればいいのであるが、
アクセス問題や管理が出来ていない等実現不可である。
でも妥協の産物として別荘地を買ったわけではない。
この様な考えも、何の考えも持たずに買ったのである。
他の方の様に土地を検討に検討を重ね購入し、建物を吟味に吟味して建てたのではない。
別荘に対する何の思い入れも無く、頭に想い描く理想像も無く、それが我が家の購入時の現実である。
我が家の別荘は親類も友人も同僚も殆ど呼んでいない。
過去に招待したのは友人夫婦一組だけである。それも他の人への口止めをしてである。
全くの隠れ家である。

そして時と共に別荘生活をする内に心の中に芽生えてきた考えである。
別荘で過ごす時の流れと共にこの癒しの考えが益々大きく成長したのである。

別荘は自分にとって癒しの、かけがえのない大切な空間である。
旅館では味わう事の出来ないものである。

別荘、田舎暮らし、永住など人それぞれの価値観が異なる事柄であり、
自分の価値観と異なる事を認めないものでも、自分の価値観を強制するものでもない。
自然豊かな心休まる空間に対する思いのたけである。

当たり障りの無い事柄を書くべきか迷った末の記事とご理解のほど。



シダの化石を特注した額に収めたもの。
化石自体はブラジルで買ったものである。

(お山の額入り)






コメント (3)
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