Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

金子三勇士@シャネルネクサスホール 2/20 2010

2010-02-22 00:00:08 | ピアニスト 金子三勇士
東京の空はずっと曇天が続き、先週は雨も多かった。
気温は下がり続け、雪が散らつくことも何回かあった。
連日、凍えるばかりの寒い日々だった。

北欧の人が使う慣用句に「あなたが太陽を持ってきてくれた。」という歓迎の言葉がある。
晴れる日が少ない時期にゲストが訪れた時、空に太陽があれば、お互いに嬉しい、
迎える人も来る人にとっても。

2月20日は久々の晴天だった。
それは、まさに金子三勇士が太陽を持ってきてくれたかのようだった。

早めに着いたので、いつも素通りするネクサスホール階下のシャネルの店舗を覗いてみる。
ショーウインドウに飾られたドレスや衣類は一桁違うかと思うほどの値段だが、
小物に関しては手が出ない金額ではない。
そのせいか、若い女性やカップルが商品を手に取り、説明を聞いている。
ふと耳を澄ますと全く店内に日本語が存在していない。
見た目は日本人に見える大勢の店内の人達。
旧正月の休暇の影響だろうか。
ほとんど中国系の観光客のようだった。

午後4時からのリサイタル。
会場は満席、ステージ左右、そして後方にも新たな席が用意されている。
今年初めての金子三勇士の演奏を聴くために多くのファン、
そして抽選に応募して初めてこの会場へと足を運んだ人たち、
会場の熱気にエアコンで冷房が入るほど。

ショパン ワルツ第4番へ長調 「華麗なるワルツ」 作品34-3

観客を迎えるのに相応しい軽やかなオープニングの曲。

ショパンは1829年にウィーンに20日ほど滞在し演奏会を行っている。
その後、音楽院を卒業したショパンは再びウィーンへと旅立つ。
ヨーロッパ旅行への足掛かりにする予定が、着いて一週間後にワルシャワ革命が起きる。
そして翌年の夏までウィーンに滞在することを余儀なくされた。
その頃、ウィーンで流行っていたのは、ヨハン・シュトラウスのワルツ。
その曲調や流行にショパンは馴染めなかったようだ。
その後、ショパンはワルツをダンス用の音楽から芸術性の高い楽曲へと変えた。
「仔犬のワルツ」に対して、この曲は「仔猫のワルツ」と称される。
しかしショパン自身は自分の作品に色やイメージを付けられるの避けて、
タイトル付けはしなかったと言われている。
ウィーンを離れてから、8年後、パリ在住時の作品。

私がこの曲を聴くのは、昨年8月末の金子三勇士、シャネルでのリサイタル以来。
そして金子三勇士も2ヶ月振りのシャネルネクサスホール登場。
情熱溢れる演奏で室内の温度を更に上げた。
このような少人数の規模のホールで彼の演奏を観られる機会は、
これから少なくなるのではないだろうか。

ショパン 「4つのマズルカ」作品33
第22番 嬰ト短調 作品33-1
第23番 ニ長調 作品33-2
第24番 ハ長調 作品33-3
第25番 ロ短調 作品33-4

子供の頃から病弱だったショパンは何年かに渡り、夏を田舎の地方で過ごした。
その時にポーランドに伝わる民族舞踊に親しむ機会を持つ。
そしてショパンにとってパリで過ごした中で最も安定していたという時期にこれらを取り入れて、
独自の作品を作った。

20年の人生の半分以上をハンガリーで過ごし、
また日本で生まれてからの6年間もハンガリーの音楽家である祖母、祖父、母と過ごしてきた金子三勇士。
DNAに民族の歴史が組み込まれている。
ポーランドとハンガリーの民族音楽の違いはあっても、その独特のセンスが三勇士には刻まれている。
先ほどのウィーン系のワルツとは対照的。
抑揚が効かされた民俗舞踊、作品に大きな膨らみを持たせて三勇士は演奏した。

ショパン ポロネーズ第6番 変イ長調 「英雄ポロネーズ」 作品53

この曲は勇壮でダイナミックな曲、ある意味とてもわかりやすい曲で、
初めて聞いた人もクラシックが苦手な人も、惹きつけるだけの魅力溢れる曲だ。
しかしながら、この曲に至るまでのショパンの想いは深い。

ウィーンへ着くなり、ポーランドの革命の知らせを受け、出国もままならない中、
国を憂い、家族を心配し、悶々とする中で翌年までウィーンで過ごした。
その後、ヨーロッパ諸国を旅行の後、フランスに居を移したショパン。
ポーランドを離れる際に友人が持たせてくれた故郷の土、ショパンが亡くなった時に、
フランスのショパンの墓の上にはこの土が掛けられた。
そしてショパン自身の希望により、遺体の心臓はポーランドへ送られている。
フランスにいながらこれほどの想いを母国へ向けていたショパン。
この曲が書かれたのは、1842年。
この年にショパンは画家のドラクロワと知り合い、親交を深めている。
ドラクロワからポジティブな発想、良いエネルギーをたくさん受けて、
このような曲へと気持ちを昇華させたのだろうか。

金子三勇士の「英雄ポロネーズ」を聴くのは、3回目だが、
更に情感豊か、切れ味が冴える、くっきりと個性を出してきている。
50年に渡りロシア占領下にあったハンガリー。
その国情を知り尽くし反骨のハンガリー魂を持つ祖父と生活を共にしてきた三勇士。
ポーランドを離れてフランスで晩年活動したショパン、
その複雑な心境に思いを重ねることができる数少ない若い演奏家と言える。
今回は演奏のスケールが更に大きくなり、1000人位の観客に向けられているようだ。
これを聴きながら、私は「行ける!」と思った。
今年の秋も深まる頃に、金子三勇士はその結果を出してくれることだろう。

シューマン ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22

先月、音楽関係者の集まりで金子三勇士と会った時、
今年はショパンの生誕200周年は話題になっているが、
同じ200周年のシューマンに関して取り上げる人が少ないことを彼は指摘していた。
この日のコンサート、金子三勇士がシューマンをきっとぶつけてくると予想はしていた。
しかし休憩後、20分に及ぶこの曲を演奏するとは想像もしなかった。
シューマンは不安定な精神状態に悩まされ続けた生涯だったそうだ。
この幻想的な作品の中に、その今にも爆発しそうな状態、
落ち着かない気持ちが表現されていると説明がある。

金子三勇士の説明を聞きながら、演奏者としてどんな作曲家に接する時も、
その人の心に近づき理解しつつ、その上である程度距離も取り、
中庸を保つ解釈に行き着き、観客へとその曲を渡す、
その仲介する立場として自分を位置付けていることが感じられた。
シューマンのソナタ、感情が高まっていく激しさと
そして消え入るようなか細い旋律に心が揺さぶられる。
それでも最後は三勇士がきちんとした形でこの曲との折り合いをつけて、
渡してくれることがわかっているので安心して聴いていることができる。
観客をシューマンの苦しい心境に巻き込んでそのまま置き去りにするような演奏を彼は決してしない。

アンコールは、ショパン 夜想曲第2番、
シューマンのソナタからショパンのノクターン、ロマンティックな曲へと観客を導く。
映画のテーマソングにも使われた良く知られるこの曲。
しかしながら、安易に捉えるピアニストに演奏されると非常にベタな曲になる。
金子三勇士は高い品格を保ちつつ、この曲を演奏した。

ショパン 練習曲第5番「黒鍵」
何度か聴き、テレビの映像でも上から捉えたカメラで
右手がピアノの黒鍵部分がほとんどのこの演奏の難しさを知った。
弾き込まれた「黒鍵」は更に滑らかに爽快感を観客に残す。

シューマンのソナタの後、ノクターンで観客を夢心地にして、「黒鍵」で元気づけて、会場から送り出す。
金子三勇士、いつもながら、心憎い演出だ。

最後に、これはここで書いて良いのか迷ったが。
2月2日、金子三勇士を慈しみ育てたハンガリーの祖父、ベンツェ・ラスロー氏が亡くなられた。
本来ならすぐにでも駆け付けたかったことと思うが、
翌々日の福岡にての演奏会を終え、三勇士は葬儀のため、ハンガリーへと旅立った。
おじいさまの肉体はこの世から無くなっても、魂はいつも三勇士と共にあり、
彼の演奏の中にその存在はずっと生き続けていく。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

金子三勇士、クラシック専門のプロダクション、ジャパンアーツへの所属が決まった。
http://kanekomiyuji.seesaa.net/