ほっこり。
子育ての醍醐味ににんまりしている私。
お休みの日の午後3時。今年の夏は、尋常じゃない暑さが続いている。
でも、子どもたちは元気だ。家の一坪倉庫で秘密基地を作って遊んでいた。
遊びに来ていたJ君と四男にガリガリくんをおやつにあげた。
しばらくして倉庫に様子見に行くと、二人がいない。
J君の自転車はある。
ま、いいかとうっちゃていたら、5時を過ぎても帰って来ない。
用事があって出かけて、7時過ぎに帰ってみると、四男が帰っていた。
「どこに行っていたの?」と聞くと、「○○峡という川に行こうとしたけれど、遠すぎてたどり着かなかった。」と言いながらも、10㎞以上の距離を、炎天下、子ども用の自転車で走った様子だった。
「え~~~~~~~~~~、こんな暑い日に、3時過ぎてから、○○峡をめざすなんて・・・・。水分はどうしたの?のどか湧いたでしょう?」と聞くと、「コンビニのトイレの水は飲んでも大丈夫かな?」と聞いてきた。
「たぶん、水道水なら大丈夫だと思うけれど・・・・。」と一応、答えた。
「でも、J君の自転車はおうちにあったじゃない。J君は、歩いて行ったの?」と聞くと
「僕の保育園の時の自転車で行った。そっちの方が、J君の自転車より軽いんだ。」というではないか。
往復20㎞の道のりを、しかも、炎天下。
車では、何度も行っている○○峡。で、3時過ぎに暑くなったカラダが行きたくなったのだろう。一人じゃアクションできないけれど、仲間がいると、行動に移すエネルギーのハードルが低くなる。しかし、いざ、自転車で行くと思いのほか遠かった。遠すぎて、初めて、遠いということを実感したのだろう。「もう、自転車では行かない。」とつぶやいた。
冒険心は、無謀だけど、必要だ。
子育てで、ここが難しい。
「今からは、そんな遠いところに子どもだけで行くときは、ちゃんと行き先を言って行きなさいね。」と一応、ビシッと言った。少し、『叱る』の気持ちをかき混ぜて・・・。
だって、そんな遠いところに行きたいといって、「はい、いいですよ。」なんてすんなり許可する親なんているはずないもの。
管理しなきゃ、危険。でも、子どもは、管理しすぎるとダメになる。
昔は、子どもの数も多く、親たちも忙しくって、子どもをちゃんと見れなかった。放任っていえば放任で、よくも、まぁ、無事に育ってくれたって世界だった。でも、今は、管理されすぎて、なんでもかんでも危険という理由で冒険をさせてもらえない。
子ども時代にすべき冒険をできないで大人になった時の冒険できなかった弊害と、たまに、親の管理の隙間をぬって、もうしないと言わしめるほどの冒険ができた子の大人になっ時の感性を天秤にかけたら、どっちがいいんだろう。
実は、そんな冒険の話をしたかったのではない。
テーブルの上に、ごく普通の綾鷹の500mlのペットボトルが置いてあった。
その話をしたかったのだ。
冒険につきものの、人の情けを身に染みて感じた四男の極上の幸せについて。
つづく
「今日、僕、おばちゃんとお友達になったんだ。」
「へぇ~~~~。おばちゃんとお友達になったの?おばちゃんって何歳ぐらいなの?」
「30歳くらい?」
「30歳は、おばちゃんじゃないよ。おばちゃんって言ったら、お母さんぐらいじゃないの?お母さんより若かったの?」
「わかんないよ。僕には、おばちゃんが何歳くらいなんて。」(だよね。)
「でも、どうしてお友達になったの?」
「僕たちが川に着いたら、そのおばちゃんがいて、『どこの小学校?』て聞いたから、『○○○小学校』と答えるとびっくりして僕たちに、お茶とトマトをくれたんだ。僕、トマト嫌いなのに、そのトマトはとっても美味しかった。水につけて冷やして食べたんだ。ほんとうに美味しかったなぁ。お茶は、J君と交代交代で飲んだよ。」と言って、テーブルの上の空になった綾鷹のペットボトルを指さした。
「よかったねぇ。喉が渇いていたから、ほんとうに美味しかったんだろうね。」
美味しいにもいろいろある。
ほんとうに美味しい。喉の渇きを潤す美味しさ。水につけて冷やした美味しさ。そして、なんといっても、おばちゃんの優しさがじ~ンと伝わってくる美味しさ。
人生で、こんなに美味しいトマトを食べれたという体験は、彼らの人生にとって、人の情けも捨てたもんじゃないという人間を信じる気持ちの原点に値するものとなったと思う。
ありがとう。おばちゃん。
後で聞くと、そのおばちゃんは、川の木陰で本を読んでいたという。きっと、お姉さんだよね。8歳の子にとっては、30歳以降は、おばちゃんなんだ。
ありがとう。お姉さん。
冒険は危険。でも、人生の宝物が潜んでいる可能性も大きい。
子どもをあんまり管理しすぎると、この世の情けをあの嫌いなトマトがとっても美味しいトマトに変身して四男のにカラダに沁みいる体験として感じるチャンスも奪っちゃう。
ここが、難しいところだね。
実は、私が、極上の幸せを感じたのは、旅の情けのお話ではない。
おばちゃんから頂いた綾鷹の飲み干した後のペットボトルが、極上の幸せを私にプレゼントしてくれた。
さて、四男は、テーブルに置いてあったその空のペットボトルをどうしたでしょう?
「これは、大事なものだから、僕の机に飾っとこう。」と嬉しそうに言いながら、机の本棚のところに大切そうに置いたのだ。
これだから、子育てはやめられない。
日ごろは、「おまえ」「うぜー」などと減らず口を叩く四男の口から、ときたま、出てくるダイヤモンドに胸がキュンときて、いつまでも、輝きが失せない。その失せない輝きを胸に、私も生きるエネルギーをお裾分けしてもらえる。
大人だけの世界では、こんなお裾分けなんてほとんどないもの。
今、綾鷹は、我が家の神棚(四男の机)に奉ってある。
綾鷹を見るたびに、拝みたくなる。
ずっと、ずっと。感謝。
子育ての醍醐味ににんまりしている私。
お休みの日の午後3時。今年の夏は、尋常じゃない暑さが続いている。
でも、子どもたちは元気だ。家の一坪倉庫で秘密基地を作って遊んでいた。
遊びに来ていたJ君と四男にガリガリくんをおやつにあげた。
しばらくして倉庫に様子見に行くと、二人がいない。
J君の自転車はある。
ま、いいかとうっちゃていたら、5時を過ぎても帰って来ない。
用事があって出かけて、7時過ぎに帰ってみると、四男が帰っていた。
「どこに行っていたの?」と聞くと、「○○峡という川に行こうとしたけれど、遠すぎてたどり着かなかった。」と言いながらも、10㎞以上の距離を、炎天下、子ども用の自転車で走った様子だった。
「え~~~~~~~~~~、こんな暑い日に、3時過ぎてから、○○峡をめざすなんて・・・・。水分はどうしたの?のどか湧いたでしょう?」と聞くと、「コンビニのトイレの水は飲んでも大丈夫かな?」と聞いてきた。
「たぶん、水道水なら大丈夫だと思うけれど・・・・。」と一応、答えた。
「でも、J君の自転車はおうちにあったじゃない。J君は、歩いて行ったの?」と聞くと
「僕の保育園の時の自転車で行った。そっちの方が、J君の自転車より軽いんだ。」というではないか。
往復20㎞の道のりを、しかも、炎天下。
車では、何度も行っている○○峡。で、3時過ぎに暑くなったカラダが行きたくなったのだろう。一人じゃアクションできないけれど、仲間がいると、行動に移すエネルギーのハードルが低くなる。しかし、いざ、自転車で行くと思いのほか遠かった。遠すぎて、初めて、遠いということを実感したのだろう。「もう、自転車では行かない。」とつぶやいた。
冒険心は、無謀だけど、必要だ。
子育てで、ここが難しい。
「今からは、そんな遠いところに子どもだけで行くときは、ちゃんと行き先を言って行きなさいね。」と一応、ビシッと言った。少し、『叱る』の気持ちをかき混ぜて・・・。
だって、そんな遠いところに行きたいといって、「はい、いいですよ。」なんてすんなり許可する親なんているはずないもの。
管理しなきゃ、危険。でも、子どもは、管理しすぎるとダメになる。
昔は、子どもの数も多く、親たちも忙しくって、子どもをちゃんと見れなかった。放任っていえば放任で、よくも、まぁ、無事に育ってくれたって世界だった。でも、今は、管理されすぎて、なんでもかんでも危険という理由で冒険をさせてもらえない。
子ども時代にすべき冒険をできないで大人になった時の冒険できなかった弊害と、たまに、親の管理の隙間をぬって、もうしないと言わしめるほどの冒険ができた子の大人になっ時の感性を天秤にかけたら、どっちがいいんだろう。
実は、そんな冒険の話をしたかったのではない。
テーブルの上に、ごく普通の綾鷹の500mlのペットボトルが置いてあった。
その話をしたかったのだ。
冒険につきものの、人の情けを身に染みて感じた四男の極上の幸せについて。
つづく
「今日、僕、おばちゃんとお友達になったんだ。」
「へぇ~~~~。おばちゃんとお友達になったの?おばちゃんって何歳ぐらいなの?」
「30歳くらい?」
「30歳は、おばちゃんじゃないよ。おばちゃんって言ったら、お母さんぐらいじゃないの?お母さんより若かったの?」
「わかんないよ。僕には、おばちゃんが何歳くらいなんて。」(だよね。)
「でも、どうしてお友達になったの?」
「僕たちが川に着いたら、そのおばちゃんがいて、『どこの小学校?』て聞いたから、『○○○小学校』と答えるとびっくりして僕たちに、お茶とトマトをくれたんだ。僕、トマト嫌いなのに、そのトマトはとっても美味しかった。水につけて冷やして食べたんだ。ほんとうに美味しかったなぁ。お茶は、J君と交代交代で飲んだよ。」と言って、テーブルの上の空になった綾鷹のペットボトルを指さした。
「よかったねぇ。喉が渇いていたから、ほんとうに美味しかったんだろうね。」
美味しいにもいろいろある。
ほんとうに美味しい。喉の渇きを潤す美味しさ。水につけて冷やした美味しさ。そして、なんといっても、おばちゃんの優しさがじ~ンと伝わってくる美味しさ。
人生で、こんなに美味しいトマトを食べれたという体験は、彼らの人生にとって、人の情けも捨てたもんじゃないという人間を信じる気持ちの原点に値するものとなったと思う。
ありがとう。おばちゃん。
後で聞くと、そのおばちゃんは、川の木陰で本を読んでいたという。きっと、お姉さんだよね。8歳の子にとっては、30歳以降は、おばちゃんなんだ。
ありがとう。お姉さん。
冒険は危険。でも、人生の宝物が潜んでいる可能性も大きい。
子どもをあんまり管理しすぎると、この世の情けをあの嫌いなトマトがとっても美味しいトマトに変身して四男のにカラダに沁みいる体験として感じるチャンスも奪っちゃう。
ここが、難しいところだね。
実は、私が、極上の幸せを感じたのは、旅の情けのお話ではない。
おばちゃんから頂いた綾鷹の飲み干した後のペットボトルが、極上の幸せを私にプレゼントしてくれた。
さて、四男は、テーブルに置いてあったその空のペットボトルをどうしたでしょう?
「これは、大事なものだから、僕の机に飾っとこう。」と嬉しそうに言いながら、机の本棚のところに大切そうに置いたのだ。
これだから、子育てはやめられない。
日ごろは、「おまえ」「うぜー」などと減らず口を叩く四男の口から、ときたま、出てくるダイヤモンドに胸がキュンときて、いつまでも、輝きが失せない。その失せない輝きを胸に、私も生きるエネルギーをお裾分けしてもらえる。
大人だけの世界では、こんなお裾分けなんてほとんどないもの。
今、綾鷹は、我が家の神棚(四男の机)に奉ってある。
綾鷹を見るたびに、拝みたくなる。
ずっと、ずっと。感謝。