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進化する魂

フリートーク
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若い世代のコミュニケーションの変化

2010-02-25 13:01:15 | 社会
昨日「宗教的大変革の時代」というエントリを書いたが、これまた社会学者による素晴らしいエントリを見つけた。
社会学というと知的教養にしかならなかったけど、今後は制度設計に関して積極的に関わるようになるのかもしれない。
「経済」からの要請で「社会」を規定するのか、「社会」からの要請で「経済」を規定するのか、この攻防は面白いのではなかろうか。
オープン・サイエンスの時代、学際的に考えれば「社会経済」なるジャンルが出来ようものだが、統合されるのはまだまだ先なのかもしれない。

ブログのエントリとしては少し長いですが、若年世代の変化について網羅的に述べられており、勉強になるので一読することをおススメする。
(本を買って読んだ方が早いのかな・・まぁ無料だから)
単純にまとめてみよう。(途中息切れ・・)
基本認識として当Blogのものとほとんど違いがないと思われる。
(もちろん程度はLink先がいくつも上)

若い世代のコミュニケーション ―その変化の背景そして処方箋― (宮台真司 )
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=844


社会学の問題設定は、心理学との違いで言うと分かりやすいでしょう。心理学のようにミクロな問題をミクロな要因ので説明するのではなく、社会学はミクロな要因をマクロな要因から説き起こして説明する

1 動機不可解な少年犯罪の激増


まず現実として、少年犯罪はピークの1/3~1/5に減少している。
ただ、動機としてよく理解できない事件が増加していると認知されている。
しかし、「精神障害」と「人格障害」とは分けて考える必要がある。
前者は「心の病気」で、後者は「病気ではないけれど、感情の働きが普通でない人たち」。
つまり、「病気が悪いのか、性格が悪いのか」という区別があって、性格が悪い場合には、普通に罰せられ、「感情の働きが普通でない」「感情プログラムのインストールに失敗した」と表現される。
しかし、最近は何が標準的な「感情プログラム」なのか分からなくなっている。
社会成員が互いの感情を見通しにくくなり、勢い犯罪の多くは動機不可解になり、社会成員に不安が広がっている。

感情の働きは習得的で、何が標準的な感情プログラムなのかを先験的には言えない。
感情の働きの正しさや適切さを判断する基準は社会的なものだからである。
感情プログラムはどういうふうにインストールされるのか。
普通の人は教育だと考える。
親や教員が何を教えるかが、子どもにインストールされる感情プログラムを決めるのだと考えがち。
その証拠に、道徳教育や、感情教育などの必要性が、声高に叫ばれている。
しかし、社会学者の大半は、そうした考えかたについて懐疑的。
なぜなら、「教育意図の失敗による社会化の成功」があるから。

社会学では、教育意図の失敗は、社会化つまり「社会がまともな感情をインストールする働き」の障害にならないと考える。
むしろ「教育意図の成功を以て教育の成功だと見做す」ような甘えを警めるのが、社会学的思考。
家庭も学校も通過点で、学校や家庭で「いい子」であることが、社会をちゃんと生きられることを保障するわけがない。

社会が複雑になると、いろんな人がいるので、共通の前提を当てにしにくくなる。
すると、社会成員たちは、共通の価値観を内蔵していることよりも、監視と処罰をちゃんと施すことを、頼りにするようになる。
社会学では「価値コミットメントからアーキテクチャ(しくみ)へ」といい、そういう方向に社会が進むほど、「ちゃんとした価値観を持った人から社会を構成しなければならない」という考え方が廃れる。

背景には、社会的流動性の増大がある。
グローバル化すなわち資本移動自由化が進み、金も人も国境を越えて移動するのが当たり前になれば、かつてのように共通前提をベースにして社会を回すのは難しくなる。
だから、放っておけば、この流れは不可避的である。

動機不可解な犯罪が増えてきたのは、単に性格異常や人格障害が増えたという話でなく、社会的流動性の増大で、何が標準的な感情プログラムなのかが自明でなくなって、互いの動機が見通しがたくなった結果だ。


2 解離化・鬱化する若者の激増


解離化とは、一人の人間の中に複数の人格が存在して、記憶の共有がない状態で、「キレる」はこれに近い。
 「キレる」とは、感情の継続性の中で喜怒哀楽の起伏があるというより、ばちっとキレた瞬間の前と後でリアリティーが違ってしまうので、キレた状態から回復すると「何で俺はあんなことをやってしまったのか」となるケースである。
解離化は過剰流動的な社会への適応で、この社会は解離を奨励する社会である。

かつては「自己実現する」がキーワードだったが、最近は「KYを回避する」つまり「場に応じて適切な振る舞いをする」ことが推奨される。
過剰流動的環境は、人格システムに巨大な情報処理負荷をかけます。この負荷を、単一のCPUで処理するより、複数のCPUに処理を分散して緩やかに結合するほうが、情報処理能力があがる。

「古典的な鬱」は自罰傾向が強いのに対し、「軽症鬱病」は他罰傾向が強かったり、他罰傾向と自罰傾向を頻繁に交替します。自分を責めたと思うと他人を攻撃する人たちが増えている。
「古典的な鬱」の場合、従来「自分について理想が高いから、理想の自分から自分が離れるのが怖くて、人とコミュニケーションできなくなったり表に出られくなるのだ」というふうに言われてきたが、「軽症鬱病」にそうした傾向はなく、非社交的どころか、むしろ社交的な若い人たちが「軽症鬱病」にかかりやすい。
非常に社交的な人間が、ある時点を境に突然人前に出てこられなくなる。

一般的に過剰流動的社会では、関係性の正当性を弁証し難くなります。「私でなければいけない理由」がどんどん希薄化する。
それゆえに、社交的な人ほど、逆説的な状況に引き裂かれて、退却傾向に陥りやすくなると考えられる。
過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いするようになるので、人格の「まともさ」を要求しなくなる。
むしろ、場面に応じて最も合理的な振る舞いをすればそれでOK。
自分や相手が何者なのかは問われない。
「まともに生きよう」よりも「うまく生きよう」に傾くのが合理的。


3 関係性が脱落した若者
 (1)「ケータイ小説的なもの」の拡がり


自己同一的な主体として完成されるという「自己形成」の観念は廃れた。
「それってある」「気持ちはわかる」みたいなものだけで、モザイク的に世界が構成されていく方向。


 (2)「彼女がいても非モテ」の拡がり


疑心暗鬼が生じて自分も二股三股の保険をかけることになりがちで、「たこ足化の悪循環」が回る。
悪循環の中で、些細なトラブルがあるたびにホッピングし、交際した相手の数が増えても、関係の履歴が積み重ならない。


 (3)「援交第一世代」から「第二・第三世代」へ


携帯代を稼ぐ必要で援助交際をするケースが増えた。
それまで常習援交が多かったのが、臨時援交が増えた。
昔のように貧乏な家の子がやっているのとは、全くイメージが違う。
彼氏や親に迷惑をかけたくないというコミュニケーション的な理由。


 (4)「プロフサイト」がもたらす疑心暗鬼


ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)やプロフサイトを含めて、日記を不特定多数に公開するような「疑似プライベート空間」が拡がったことが、昔は親しくあり得た人間関係に、疑心暗鬼を持ち込んでいる。
オンラインでダダ漏れになることが恐くて、オフラインで喋りたいことが喋れなくなってしまう。
これが「プロフサイトがもたらす疑心暗鬼」の典型面。

全体が示すのは、関係性を築くための前提が空洞化している現実。
日本人は、相手と前提を共有していると思えないとコミュニケーションを始められない。
関係性の空洞化の背後にあるのは、共通前提の消滅です。共通前提が消滅したので、関係性を深められない。
代わりに表層的なプロトコル、つまりコミュニケーション手順の形式ばかりが発達。


背景
1 理論編:〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化


マックス・ウェーバーの言葉を使えば、物事を計算可能にする手続が一般化した領域が〈システム〉で、例えば役割&マニュアルが支配的になった領域。
それに対し、残余の領域が〈生活世界〉で、役割&マニュアルではなく、善意&自発性が支配的であるような行動領域。
〈システム〉と〈生活世界〉の決定的違いは、簡単に言えば、〈システム〉は匿名的で、入替可能で、過剰流動的であるのに対し、〈生活世界〉は記名的で、入替不可能で、流動性が低い。
役割をマニュアルどおり演じられれば誰でもかまわないのが〈システム〉で、グローバル化に適しているので一挙に全世界化した。

ウェーバーは〈生活世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代化」ないし「合理化」と呼んだ。。
この意味での「近代化」が進むと、いずれは必ず「モダンからポストモダンへの変化」という逆説が起こる。

どんな逆説か。
〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初においては、〈生活世界〉を生きる「我々」がより便利で豊かになるための適宜(手段)として〈システム〉を使うのだと、自己理解できる。
ところが、〈システム〉がある程度以上に広がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや「我々」が〈システム〉を使っているとは言えなくなり、「我々」や〈生活世界〉というイメージすら〈システム〉の構築物だと理解する他なくなります。
そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が壊れる。

従来、共同体の自立的な相互扶助によってまかなわれていた便益が、市場サービスや行政サービスから調達されるようになる。
公共性の観念が一変してしまうことがポイント。
「自分たちでできることは自分たちでやる(社会でできることは社会でやる)、それができない場合に国家を呼び出す」という図式が消える。

プライベート(私的・個人的)な領域がガチンコで国家に向き合うようになる。
心細くなった個人は、相互扶助を頼らず、直ちに国家の呼出線を使うようになる。

従来は「知らない人でも信頼できる」という前提だったのが、「知らない人は信頼できない」という前提に変わる。
その結果、市場ではセキュリティ産業が隆盛になり、行政は監視カメラ化や警察官増員の方向に動くようになる。
「不安のマーケティング」と「不安のポリティクス」が社会を覆い、社会のどこのかしこも、不安をベースにしたポピュリズム(人気主義)が支配するようになる。

また、〈生活世界〉が空洞化して〈システム〉が全域化することは、従来の人間関係の距離空間が変わることを意味する。
ひとつ屋根の下の家族よりも、出会い系でやりとりしている知らないおじさんの方が、よほど親しいという現象が起きる。

理論的には〈生活世界〉が空洞化して、それを〈システム〉が置き換える動きが生じ、それゆえに社会イメージが変わり、結果として、社会の中で我々がなすべきことのイメージや、国家がなすべきことについてのイメージが変わった。


2 歴史編:二段階の郊外化による〈生活世界〉空洞化


第一次郊外化=団地化=[地域空洞化×家族内閉化]と、第二次郊外化=ニュータウン化=[家族空洞化×市場化&行政化(第四空間化)]の、二段階のステップで、1985年に、それまであり得なかった振舞いが可能になる空間が突如出現した。

社会がそういう変化をしてきたことを主題的に議論したことがあったか。
そういう変化がどういう良いことと悪いことをもたらしたのか。
利害得失表をきちんと議論していない。
それが処方箋に絡む重要な問題。


処方箋


日本は欧州的方向と米国的方向のどちらを選ぶのか。実際のところ、米国的な処方箋に思考停止的に追随した結果、米国社会とは文脈が全く違うがゆえに、米国では起こらなかったような混乱が日本で起こるようになった。


1 欧州的処方箋
2 アメリカ的処方箋