goo blog サービス終了のお知らせ 

進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

効率化の悪魔

2010-02-08 12:55:55 | 社会
テーマからするとトヨタの問題かと思ったあなた、残念ながら全く違います。

ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由(藤井敏彦)
http://wiredvision.jp/blog/fujii/200802/200802251000.html


ブラッセルに赴任して欧州委員会の官僚を相手に仕事するようになった時、いや驚いたのなんのって。彼らの優雅なこと!昼は2時間かけてランチ。6時にはオフィスは無人状態。夏は一ヶ月間バカンス。おまけに給料ははるかに多い。ワタシ心に誓いました。来世も役人やるとしたらヨーロッパ人に生まれて欧州委員会に勤めようって。


私も以前、ヨーロッパのそこそこ大きい企業と仕事をしたことがあるのですが、働き振りがまったくちがっていた。
まず朝はエコを理由に自転車通勤、会社からヘルメットが支給されたりする。
自転車通勤がいいという話ではなくて、自転車通勤が様になる土地柄と通勤のし易さがいい。
昼休みは2時間で、雰囲気は大学のゆったりした雰囲気に似ている。
のんびりしていて、昼食後にカフェテリアでお茶しながら団欒なんてのが当り前。
そして6時を過ぎると帰宅して家族団らん、あちらは陽が長いのでそこから一日が始まるという感覚すらある。
日本でも「アフター5」のような言葉があるが、なんだろうか、あちらにいると「アフター5から違う一日が始まる」気がしてくる。
たぶん、日本での生活はかなり効率化されているがために、その効率性に劣る、つまり「無駄」を皆が嫌うから
、「効率的にできた」喜びよりも、「無駄をしてしまった」徒労感の方が優先するのであろう。
そのせかせか感が「時間の流れる感覚」を急なものにするのだと思う。
時間の流れは主観的なものだから、人生に対する向き合い方で時間の流れは変わる。

それでもって、あちらでは1~2ヶ月もバカンスで仕事を離れ海外旅行などを楽しむ。
プロジェクトの進行が思わしくなく計画の前倒しを求めた時があったのだが、バカンスを理由に断られた。
「バカンスのために仕事してるようなものだから、バカンスないなんて馬鹿らしくてやってられない。」くらいに言われたのを覚えている。

さらにいえば、彼らは日本人のようにがんばったりしない。
例えば、あるものを商品化しようとした時、その商品が商品として成り立つための基準と言うものが存在するが、とある部品がその基準に満たなかったとする。
その時、日本人ならなんとか期日までに基準を満たすように改善努力を行うだろう。
徹夜や休日出勤など当り前のように。
だが、彼らにその意識は希薄だった。
「いやいや、それがその部品の実力であり限界である。」と。
日本企業であれば、相手の要求を先回りして、相手の期待を上回るサービスやモノを提供したがるのだが、彼らは違う。
日本の企業と協業する時には、感じることのできない「あっさり感」であり、ある意味すがすがしい。
できるかできないかわからないようなものに、計画を無視してまで一生懸命になるのは無駄である。
自分達の実力をよく把握し、その範囲を超えることは求めない。
確かに、その生き方の方が生き易いと思う。

日本人の場合、少しでも改善できる余地があればやってしまう。
トヨタ・ウェイの「カイゼン」は世界語にもなったその代表である。
そこに組織的にも個人的にも成長があると盲目的に信じているかのように、無駄でも何でもチャレンジする。
向うは、そんなちまちましたところにこだわらない。
このあたりは「私的日本人論」で語ろうとは思っているが、これが国として成熟するということの意味なのかと思ったものだ。

最近、タイム誌かどこかで世界で最も魅力的な街に東京が選ばれたが、確かにハードとして東京は突出しているように思う。
ありとあらゆる機能が東京と言う街に集中し、そして極限まで効率化されている。
犯罪率も低い。
これほど機能的な街はなく、近代日本人の都市観を見事なまでに表し、日本人の傑作が東京という街なのだ、そう思う。

都市はどこまでも効率化できると思う。
いや、効率化できるということより、効率化されることを許容するのが都市というものだ。
しかし、人間は効率化できるところばかりではない。
知識は一瞬にして形を変え、そして適応することができるが、体はそういうわけにはいかない。
効率化するものと、効率化しないもの、その住み分けをもう少し考えた方がいい。

最近の経済成長路線や生産性向上重視に対する拒否感というのも、効率化が人間の全てに及ぶ可能性についての直感的洞察なのではないか、ふとそのように思うからである。
両者の誤解を解くには、このような見方を差し挟む余地があるのではないだろうか。

本当は、近代化の過程で議論されなければならなかったテーマなのだが、日本では十分にはなされなかった。
そこには、日本人としての根深い思考停止の原因があるからだが、それは「私的日本人論」で語る予定だ。