鳩山首相の唱える「新しい公共」が十字砲火を浴びている。
私も「実際に出てくる社会主義色の濃い政策」に辟易している1人だが、ただ私は「彼の問題意識」は間違っていないと思う。
広義に「問題意識」を捉えられると困るが、ここでいうのは「問題として着眼する"点"」は決して間違っていないということだ。
彼に足りないのは、その点(問題)を深堀りし、他の問題との相互関係(線)を明らかにし、さらにその根底で眠っている根本的な構造的問題(面)を解き明かす姿勢であり、また「その姿勢の必要性への気づき」だ。
※
念のため予防線を張っておくが、私は鳩山首相の問題意識を認めているのではなく、鳩山首相の問題意識を想起させている源にある点(問題)を、問題として設定することは間違っていないと述べているのである。
先日のエントリ(鳩山首相の施政方針演説「いのち」と「卵と壁」)でも述べたように、"政治の在り方"として「政治は正しいと間違いとに関わらず弱者の側に立たねばならない。」という命題について、私は否定しない。
「弱者」というものは、間違う故に弱者なのであり、それと同時に弱者である故に間違うのだ。
それは「人そのものという弱者」のことでもある。
人間を人間として見た時、そこに「弱さ」があるわけではない。
しかし、人間を人そのものとして見た時、そこに確かな「弱さ」がある。
言い換えよう。
人間という「存在」そのものに「弱さ」があるわけではない。
人という個人が生きるということそのものが、人間が本態的に持つ真なる意味での「弱さ」なのである。
人類は、その歴史の中で、「弱さ」を克服せんとする努力を重ねてきた。
その代表的なものが「宗教」である。
(宗教とは一言で語れぬものであるが・・)
誤解を恐れず言えば、「宗教」とは、「強さである神」と「弱さである己」を対置することで「弱さを正当化」する処方箋である。
自分が弱いということを認め、そしてその弱さを克服する名目(克服可能であること)を高らかに宣言することを可能とするのだ。
人間が持つ「生きるという弱さ」を克服できると考えるところに宗教の存在意義がある。
※
内田樹が日本辺境論で述べたのは、この宗教観を日本人とユダヤ人は共有していないという分析であった。
日本では宗教教育がないにも関わらず、道徳教育が間接的に成立している理由について彼は説明する。
だから、西欧では「平等で自由な個人」を定義する。
宗教が個人を正当化することを許すからだ。
一方、日本ではどうか。
日本は長らく「個人」よりも「和」が尊ばれた。
(もちろん理由はある。なぜそうなのかは後日。)
一般にいう「和の精神」などという浅い概念をここで述べているのではない。
理解し難いところなので、逆に言えばわかりやすいので言い換える。
「平等で自由な個人」の概念そのものが日本社会から欠落しているといってもいい。
だから、太古から日本という国の政策はことごとく「個人を想定していないもの」ばかりであった。
日本に「個人」はいないのだ。
(「個人」が何を指すかということを理解するためには、宗教や民主主義に関する知識が必要だ)
少し乱暴な意見だが、「平等で自由な個人」を「自己アイデンティティ」とするなら、日本人にとって「自己アイデンティティ」とは「関係」であった。
個人というものは存在せず、関係の中で自己アイデンティティが定義されるのである。
他との関係の中で自己アイデンティティが規定されるという意味ではなく、和、環境として自己が存在するという意味で、つまりは個人が存在しないということだ。
ゆえに日本の歴史の中で重要視されるのは個人ではなく、和、組織、環境というものであった。
下記の番組は多くの人に衝撃を与えただろう。
(これは文章で見るより、映像で見たほうが衝撃的だ)
NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10449424956.html
「会社」というものが自己アイデンティティであるなら、定年すれば自己を喪失することを意味する。
「家族」というものが自己アイデンティティであるなら、離婚、生涯未婚もまた自己の喪失を意味する。
これが「共同体」を失うということの意味である。
日本人は気づけば「共同体」という自己アイデンティティの映し鏡を失った。
自立しない剥き出しの「個人」が顕になったのだ。
しかし、日本に平等で自由な個人を看取ってくれる神はいない。
もはや日本人は、思い出の中にしかアイデンティティを見出す場所がない。
これが社会的ノスタルジーの潮流の原因だ。
高齢者の増加、剥き出しの個人の増加、不安に駆られる国民、
鳩山首相が、この状況を問題視し「新しい公共」によって剥き出しになった「個人」を守ろうと考えているのであれば、私はその考えに強く賛同する。
だが、問題は「個人の守り方」の方だ。
"新しい"公共というのだから、これまでの既存の考え方を脱却して頂きたい。
「セーフティネット」という言葉で思考停止せず、ハードではなくソフトの問題に目を向けるべきだ。
もちろんトレードオフもある。
「できること」と「できないこと」の判断を迫られることも多々あるであろう。
しかし、今求められているのは発想の転換である。
本エントリでここまで述べたことを理解できたら、次に何を考えればいいかわかるだろう。
「新しい公共」のヒントがここにある。
今のセーフティネット議論に致命的に欠けているのは「個人」の定義そのものである。
※
めんどうになったので続きは後日・・。
「個人」があるのとないのと何が違うのか。
それは問題設定の仕方が違う。
現実に先立って現実を創造するのが「個人」、現実に後追いで現実を認識するのが「非個人」
日本には「個人」がいないが、「個人」がいると想定されている。
私も「実際に出てくる社会主義色の濃い政策」に辟易している1人だが、ただ私は「彼の問題意識」は間違っていないと思う。
広義に「問題意識」を捉えられると困るが、ここでいうのは「問題として着眼する"点"」は決して間違っていないということだ。
彼に足りないのは、その点(問題)を深堀りし、他の問題との相互関係(線)を明らかにし、さらにその根底で眠っている根本的な構造的問題(面)を解き明かす姿勢であり、また「その姿勢の必要性への気づき」だ。
※
念のため予防線を張っておくが、私は鳩山首相の問題意識を認めているのではなく、鳩山首相の問題意識を想起させている源にある点(問題)を、問題として設定することは間違っていないと述べているのである。
先日のエントリ(鳩山首相の施政方針演説「いのち」と「卵と壁」)でも述べたように、"政治の在り方"として「政治は正しいと間違いとに関わらず弱者の側に立たねばならない。」という命題について、私は否定しない。
「弱者」というものは、間違う故に弱者なのであり、それと同時に弱者である故に間違うのだ。
それは「人そのものという弱者」のことでもある。
人間を人間として見た時、そこに「弱さ」があるわけではない。
しかし、人間を人そのものとして見た時、そこに確かな「弱さ」がある。
言い換えよう。
人間という「存在」そのものに「弱さ」があるわけではない。
人という個人が生きるということそのものが、人間が本態的に持つ真なる意味での「弱さ」なのである。
人類は、その歴史の中で、「弱さ」を克服せんとする努力を重ねてきた。
その代表的なものが「宗教」である。
(宗教とは一言で語れぬものであるが・・)
誤解を恐れず言えば、「宗教」とは、「強さである神」と「弱さである己」を対置することで「弱さを正当化」する処方箋である。
自分が弱いということを認め、そしてその弱さを克服する名目(克服可能であること)を高らかに宣言することを可能とするのだ。
人間が持つ「生きるという弱さ」を克服できると考えるところに宗教の存在意義がある。
※
内田樹が日本辺境論で述べたのは、この宗教観を日本人とユダヤ人は共有していないという分析であった。
日本では宗教教育がないにも関わらず、道徳教育が間接的に成立している理由について彼は説明する。
だから、西欧では「平等で自由な個人」を定義する。
宗教が個人を正当化することを許すからだ。
一方、日本ではどうか。
日本は長らく「個人」よりも「和」が尊ばれた。
(もちろん理由はある。なぜそうなのかは後日。)
一般にいう「和の精神」などという浅い概念をここで述べているのではない。
理解し難いところなので、逆に言えばわかりやすいので言い換える。
「平等で自由な個人」の概念そのものが日本社会から欠落しているといってもいい。
だから、太古から日本という国の政策はことごとく「個人を想定していないもの」ばかりであった。
日本に「個人」はいないのだ。
(「個人」が何を指すかということを理解するためには、宗教や民主主義に関する知識が必要だ)
少し乱暴な意見だが、「平等で自由な個人」を「自己アイデンティティ」とするなら、日本人にとって「自己アイデンティティ」とは「関係」であった。
個人というものは存在せず、関係の中で自己アイデンティティが定義されるのである。
他との関係の中で自己アイデンティティが規定されるという意味ではなく、和、環境として自己が存在するという意味で、つまりは個人が存在しないということだ。
ゆえに日本の歴史の中で重要視されるのは個人ではなく、和、組織、環境というものであった。
下記の番組は多くの人に衝撃を与えただろう。
(これは文章で見るより、映像で見たほうが衝撃的だ)
NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10449424956.html
「会社」というものが自己アイデンティティであるなら、定年すれば自己を喪失することを意味する。
「家族」というものが自己アイデンティティであるなら、離婚、生涯未婚もまた自己の喪失を意味する。
これが「共同体」を失うということの意味である。
日本人は気づけば「共同体」という自己アイデンティティの映し鏡を失った。
自立しない剥き出しの「個人」が顕になったのだ。
しかし、日本に平等で自由な個人を看取ってくれる神はいない。
もはや日本人は、思い出の中にしかアイデンティティを見出す場所がない。
これが社会的ノスタルジーの潮流の原因だ。
高齢者の増加、剥き出しの個人の増加、不安に駆られる国民、
鳩山首相が、この状況を問題視し「新しい公共」によって剥き出しになった「個人」を守ろうと考えているのであれば、私はその考えに強く賛同する。
だが、問題は「個人の守り方」の方だ。
"新しい"公共というのだから、これまでの既存の考え方を脱却して頂きたい。
「セーフティネット」という言葉で思考停止せず、ハードではなくソフトの問題に目を向けるべきだ。
もちろんトレードオフもある。
「できること」と「できないこと」の判断を迫られることも多々あるであろう。
しかし、今求められているのは発想の転換である。
本エントリでここまで述べたことを理解できたら、次に何を考えればいいかわかるだろう。
「新しい公共」のヒントがここにある。
今のセーフティネット議論に致命的に欠けているのは「個人」の定義そのものである。
※
めんどうになったので続きは後日・・。
「個人」があるのとないのと何が違うのか。
それは問題設定の仕方が違う。
現実に先立って現実を創造するのが「個人」、現実に後追いで現実を認識するのが「非個人」
日本には「個人」がいないが、「個人」がいると想定されている。