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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

日本人労働者の賃金が減るのは日本人労働者の賃金が高いから

2010-02-16 12:04:53 | 経済
TV番組でちょっと気になったのでコメントしておきます。エビデンスを示せといった批判は無視されますのであらかじめご了承ください。

昨日のBSフジLIVE PRIME NEWSに浜矩子氏と藤巻健史氏、内閣府政務官の津村啓介氏がデフレについて議論していた。

浜氏と津村氏が「ここ20年間の経験からわかることは、成長は労働者への分配に寄与しない。小泉政権下で経済は成長したが、グローバル競争のために分配は減った。成長も大事だが、現在の局面では分配の方が大事」と主張していた。
一方、藤巻氏は「ここ20年間日本はずっと不景気だった。資産下落と円高が原因だ。成長しなければ分配は増えない。円高が原因で日本人労働者の対価が相対的に上がったことが、分配が減った原因だ。」と主張し、意見の一致はみられなかった。

(私がいうのもなんだが)
浜氏と津村氏がグローバル化について理解が足りていない。
グローバル競争で企業は競争力を磨くため固定費削減に動く、結果として企業は利益を上げるが分配は減ると。
気持ちはわかるが、これは状況説明としては部分的に正しいが、成長戦略を否定する論拠としては間違い。
日本人労働者に対する分配が減るのは、ビジネスのグローバル化の中で、日本人労働者の人件費が相対的に上がっているからだ。
日本人労働者の所得が減るのは、日本人労働者の所得が高いからに他ならない。
企業経営者が搾取しているからではない。
確かに、日本国内の労働者の所得でグラフを作るとずっと成長期も含めて下降トレンドである。
だがしかし、お隣の中国を含めてみよう。
中国人労働者の所得よりも、日本人労働者の所得の方が遥かに高い。
(購買力平価ではどっこいらしいが)
中国が日本と同じものを作れるのであれば、賃金水準は中国側に引き込まれる。
これは当り前の話だ。
中国側が上がって、逆に日本側が下がる。
両国の賃金が平準化されるまでこのトレンドは続くだろう。
中国側の賃金が安いし、日本側の賃金が高いからである。

中国と同じものを作る限り、日本人労働者の賃金は安くならざるを得ない。
それが嫌なら、中国がやれないものをやるしかない。
あとは、日本でしかできないサービス業を強くするか。
アメリカがITや金融に産業構造の転換をはかったように、日本も産業構造の転換が必要だ。

例えば、最低賃金を上げる理由が、賃金の低い産業を追い出すという意味なら理解できる。
シンガポールがしたように。
最低賃金を安くせざるを得ないような産業を追い出して、政府が構造変化を強制するのも有りだとは思う。
そういう労働生産性の低いものは他国に任せて、日本は新しい産業で成長するとうい発想はあり。
実際には難しいと思うけれど。
単純に労働分配率を上げるみたいな理由でやるのはかなり間違い。

「人のための経済」ってスローガンはいいけれど。。
もともと経済って「人のためのもの」だからあえて言わんでも・・。
中国側から見れば、この状況は「人のための経済」なわけ。

こんなことは一般のビジネスマンでも理解していることなのだが、日銀出身の政務官と経済の専門家が理解していないとはどういうことなのか。
まぁ津村氏は、鳩山政権としてお立場上、発言に気をつけられているということであろう。

「政治とカネ」問題の本質

2010-02-15 16:31:05 | 社会
思いつきエントリです。見直してもいないので後で修正します。

検察は「暴走」したのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51374818.html


64. advanced_future 2010年02月15日 12:28
論点をずらすわけではないですが、発言させてください。
日本の議論で面白いなと思うのは、入力部分のお話だけに終始して、出力部分についぞ議論が至らない点ではないかと思うのです。(日本的組織の考えは基本的に出口戦略がないような気が。入力こそ日本の美学でしょうか。)
政治資金規正法を武器にするのも捜査機関の限界をよく表していて、本来、贈収賄を根本的に防ぐためには出力部分(政策決定)を規制すべきなんですが、そこは捜査機関の仕事ではないので片手落ちしている状態です。贈収賄のインセンティブを働かせない仕組みを導入するということですね。
政治家に限らず一部のパワープレーヤが政策に裁量を持つ限り、贈収賄のリスクをはらむことになる。もちろん、そのリスクは柔軟性とのトレードオフであり、ルールを設ければ柔軟性が失われます。日本人は頑なルールより柔軟性を重視しているのではないですか。結局、裁量的な介入(支援)を国民自身が望んでいるからであって、その意識を変えずして贈収賄が無くせるわけがありません。
私は小沢に期待しています。彼の政策にではなく、国民の合意形成を変えるという意味での「日本の民主化」において。


コメントで書いた通り、日本では「入力」のことばかり議論される。
「出力」についての話は少しだけだ。

どう入力を揃えるかが、どう出力されるかよりも重要なのである。
例えば、どういう振る舞いをするかということは、どういう結果を導くかよりも優先される。
結果よりも礼儀を重んじる。
最近流行りの品格問題も同じ。
形式的な体裁を整えることは、実際に起きる現実よりも重い。

「政治とカネ」の問題も、実に入力偏重のお話である。
政治資金規正法が形式犯か実質犯かという話に答えを出してどうするつもりなのか。
幾人かの政治家は、「政治活動にはカネがかかるから、贈収賄を減らすためにには税金からの政治資金を増やしてもらうしかない。」というし、また他の政治家は「企業献金を禁止すべき。」という。

政治家が追い求めるのは「選挙に勝つ」ことであるから、結局は「票」である。
票に繋がるものがカネならカネを欲しがるし、名声や地位なら名声や地位を欲しがるだろう。
投票者から票を買うために、カネが必要ならカネを追い求めるし、他のものなら他のものを追い求める。
投票者は政治家に何を求めるのか。
それは政治家の裁量を生かした政策への介入に他ならない。
(政治家は税金をどう使うか、許認権ということに裁量を持っている。)
逆にいえば、政治家には投票者から票を買うために、政策へ介入することにインセンティブが働く。

だから、政治家が政策に介入できる余地を減らすことが、贈収賄を減らすポイントである。
政策決定のルールを第3者が納得できる形で明確にし、決定過程と結果を後からトレースできるように公開し、そして後日政策効果をフィードバックする仕組みを構築することである。
結果として政治家の裁量を減らすことでもある。

ただ、政治家の裁量を小さくして、困るのは誰かを考えると、それは国民かもしれない。

使い古された議論だが、やはり日本を支配している「空気」の問題がある。
日本人は「本音と建前」という言葉があるように、「本音」と「建前」とにギャップがあることを許容できる。
逆から見ると、事実関係が言語をもって明らかにされなくても、その場の雰囲気で物事を理解しようとしてしまう。
ルールの明文化を意図的に避けて、全体設計を先送りして、問題に迅速に取り掛かることを優先する。
物事が多くの領域を跨がない、ある特定の領域におさまるものであれば、取り組む者の処理能力が高い限り、効率性が高く、スピードをもって対応できる。
全体設計のための調査や調整といってコストを省くことができるからだ。
(ルールは上流設計がなくして作れない、またルール化しにくいものもあり、全体設計を先送りするということは、ルールを設けるコストを負担しないということ。)

この考え方は現代においてこそ批判されるが、過去においては非常に有用であった。
(今でも十分に有用な領域は多々ある。職人の世界がまさにそれ。)
この有用性は、「本音と建前」の存在する日本社会において顕在化する。
参加者の思惑が異なる場合、いちいち本音を探って合意形成を行うには膨大な調整コストを要する。
全体設計を行おうにも、方々に気を使っていたら時間がかかって仕方がないのである。
このような環境では、合意形成を先送りするのが一番楽である。
そのようなことに時間を割くのは無駄なので、とにかく取り掛かる。
しかし、ただ合意形成を先送りするでは、反感を買うのは必至であり、その道程に障害を生み出してしまう可能性がある。
で、どうするかだが、結論を玉虫色にすることである。
「標準化」という考え方が日本的文化に馴染まないのも、結論が明確になってしまうと困るからである。
(「標準化」は、これまで設計なしに行えたことに対して「設計を強要する」からである。)

これは結局、既得権益者との調整をスムーズにするという意味での知恵である。
無駄な争いを避け、知恵を組織内に内面化するのに非常に長けている仕組みともいえる。
連続的な発展には強い面を持つが、非連続な変化には弱い。
だから日本はキャッチアップする場面では驚異的な強さを見せるが、世界をリードする立場にはなれない。
キャッチアップするのに必要な能力と、リーディングするのに必要な能力が異なるからで、日本は前者に特化しているからである。

これはトレードオフである。
世界をリードする国になりたいのなら、キャッチアップする強さを諦めるべきである。
両方を目指すのは難しい。
だからアメリカという国は、勝てない勝負では土俵を変える(創る)。
自分達の有利な土俵を作り出して勝負するため、ゲームメーカーになろうとする。
彼らはキャッチアップする強さに欠けるが、新しい土俵を作るのに長けている。

長らく、入力を揃えることが、良い出力結果を導くために最善だと考えられてきたが、出力を規定することで入力を制約するという発想も必要だろう。
先述したとおり、トレードオフがあるから、うまい落としどころ(ハイブリッド)を見つけられるかどうかなのだが、続きはまた今度。

-------------メモ-----------
自動車産業と供に日本の世界最強と呼ばれた輸出産業の一角を占めていた電機産業が、デジタル革命とともに訪れた商品のコモディティ化の波に飲み込まれようとしている。
一般に「コモディティ化」というと「競争商品間の差異化特性を見出せない状態になる」という意味で使用されるが、つまるところ「入力がそのまま出力には結びつかないこと」でもある。
簡単に言えば、「どれだけ金と技術と人を投入してもたいした違いが出せない領域になる。」ことだ。

このコモディティ化の中で悩まされる日本の姿を見ていると、「入力と出力」に関する日本の特性をズバリ表しているように見えて興味深い。

※日本を擬人化していることからわかるように、この話は抽象的なもので、なんら有用ではないかもしれない。

並外れた属人的能力に依拠した技術、尋常ならざる反復の結果得られる以心伝心のチームワーク、総当り的試行実験で垣間見る粘り強さ。
日本人が胸を打つ感動ストーリーには、ある意味で「結果を超越した非合理的な人間」の姿が登場する。
彼らにとって、重要なのは入力であって、出力ではない。
しかし、彼らが入力に信念や意味深さを発見するのは、そのことが彼らが生きる上で重要であったことの裏返しでもある。

(ここは後述)

日本が得意とするのは「入力を揃えること」なのである。
だから技術でも商品でも興隆期には抜群の力を発揮するが、「いくら入力をいじっても出力に差が出せない状況」が苦手である。
端的に表現すると「接続的イノベーションは得意だが、破壊的イノベーションが苦手」ということになる。

日本を内側から蝕むウィルス:「個人」と「社会」

2010-02-10 11:56:47 | 社会
自分のコメントがあまりにハマッた感があるので自分のブログに掲載。
(なんと人間の小さいことか!)

自分が悪い 助けてといわない若者 (原淳二郎)
http://agora-web.jp/archives/917457.html


[自分のコメント]
この問題の本質は「社会」と「個人」との間に隔絶が起きはじめているということです。
近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが、なんと日本では逆転現象が置き始めている(そもそも「個人」が存在しなかったという問題設定も有るだろう)。政府が福祉国家的な社会を目指して「個人」の「社会」への取り込もうとしているのに反して、「個人」は「社会」から離れていく。アメリカと違うのは国家に対する積極的不支持ではなく消極的失望的不支持ではあるが。オバマのように「物語」によって「個人」を繋ぎとめることができるのか、否か。経済構造の脱近代化が迫られている今、まさに日本における脱近代社会の夜明け。
これは人類にとって長期変動的な流れである。などと愚考します。


まぁ、いつも書いてることなので当Blogとしては新規性無しですが。
ただ、当Blog内の世界だけで物事を考えると(意味不明)、日本を覆う閉塞感の問題は下記を外しては成り立たないということがわかります。
(そういえば「閉塞感を打破する方法はあるか」シリーズを途中から更新していないことを思い出す・・)

「個人」と「社会」への関わり方

これが時代とともに変化してきているんですね。
日本の場合「個人」は存在しなかったといわれておりますし、これは有名な話ですが、明治時代になるまで「社会」という言葉はありませんでした。
日本という国には、ある時に突然「個人」と「社会」が入り込んできたのです。
日本人の知らぬ間にしれっと。
皆が気づくと「個人」と「社会」はそこにあった。
だから、日本人は「個人」と「社会」への関わり方についてなんら深い洞察も得ていないし、むしろ苦しめられている。


----------------------------------

気づくと彼女(/彼氏)と自分の部屋で同棲していた。
初めは楽しかったから細かいところは気にしなかった。
なかなかかわいいし(/かっこいいし)家事も手伝ってくれる。
1人ではなんでもないことが、2人だととてもいいものに思えてくる。
そんな同棲生活が続いた。

だが、最近は一緒の空間にいることが辛い時もある。
なんだろう。
そういえば、いつ、何を理由に同棲をしたのかよくわからなくなっていた。
この同棲生活の行き着く先についても考えていなかった。
何を目指していたのだろう。
いや、何も目指していなかったのだろうか。
それすらよくわからない。

なんだろう。
楽しいはずなのに、何かが抜け落ちている感じがするんだ。
ふとしたときに。
何かが変わったのだろうか。
お互いにお互いのことを前よりわかってきたというだけで、他に変わったことはないはずだが。
それを相手に悟られないように努力している自分もいたりして。
無駄な徒労感を感じてしまうときがある。

これが恋愛ってものなのだろうか。
別に何も得るものはないが、悟ったようにそう思う。

俺(私)って何がしたいんだったっけ?


物語風にたとえてみました。
ちなみにこれは空想で、個人的経験とは一切関係がありません(笑)

教育は結果であって原因ではない

2010-02-10 11:17:17 | 社会
批判もあるかと思いますが、コメントして頂けると勉強になり助かります。

ほんと日本における教育議論は成熟しないな・・。
(教育だけでなしにあらゆる議論が成熟することないけれど)
しかし、これは日本が国家として社会像を持っていないから当り前である。


以前コメントで「教育問題に関する認識が甘い」のようなご指摘を頂いたが、その時に私は「教育とは教育機関の問題ではなく、社会の問題だ。」という主旨の回答をしたことがある。

まともな教育学者がいないとか、教育関係者のレベルが低下したということが問題なのではない。
目標設定なしに答えが見出せるわけがない。
教育が目指すべきところがないのだから、教育に関する議論も施策も全てがパッチワーク的になる。
中・長期的な目標がないので、目の前で起きる問題について対処する自転車操業的な対応を迫られ、現場の徒労は報われない。
株価の値の上がり下がりに一喜一憂する心理と同じ。
長期トレンドを無視して短期的なノイズに惑わされるのは、人間の特性でもあるのだが。

少し考えればすぐわかるはずだ。
社会として「こうあるべき姿」を定義することなしに「どう人を育てるべきか。」について話ができるわけがない。
「新人割当てたから育てておいて」と言われたらどうするだろう。
たぶん、どう育てたらよいか指針がなかったら、"自分が正しいと思う方向"に育てるだろう。
昔のように皆が似たような価値観を共有している社会ではそれでもいいだろう。
誰が育てても分散は低いし、分散が低いことが求められているから。
でも、価値観が多様化した近代社会では、誰かにとって正しいことが他の誰かにとっても正しいとは限らない。
自分が正しいと思って育てたら、後から他の人がいうのだ。
「なんでそんな育て方をしたのだ?!」と。

今、まさに日本で起きていることがそれ。
「あいつらの思い込みで人を育てている。」
「教育方針が時代遅れなんだ。」
「そんな教育では人間性が・・・。」
「教育とは・・・なものだ。」


そもそも日本における議論って「議論」じゃなくて「討論」だと思う。
議論の目的が、解決策を見出そうとすることではなく、ひたすら「自分が正しい」とか「それは間違っている」と言うためのものだから。
誰も答えを出そうとしていない状況は、いかにも日本的である。
しかし、一方で日常的に答えを求められるビジネス・シーンでご活躍の皆様方が「お前ら答えを出そうとしていない!」と主張をすると、逆に「答えを急ぎすぎている。」「答えがない問題なのである。」という批判がなされる。
方や「答えのない問題を議論している。」という人達がいて、もう一方に「議論で答えを出そうとしていない。」という人達がいる。
どちらが正しいのか。
実は、どちらも正しいか、どちらも正しくない。
というのは、そもそもほとんどの議論は「答えのない問題に答えを出す」ことだからである。
矛盾しているわけではなく、それが相対性というものなのだ。
(この話は過去に腐るほどしたし議論が発散するので繰り返さないことにする。)


さて、なぜ突然教育の話をし始めたかというと、次の記事を見たからである。
本当はこの問題について山ほど話がしたいことがあるのだが、とにかく書くのが面倒なので結論だけ述べることにする。

教育の改革は火急の問題(松本徹三)
http://agora-web.jp/archives/915751.html

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ (藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

様々なところで話を聞くにつれ、人々は「勉強」について特段の思い入れがあるのだと思う。
「勉強」はとても基本的で重要なものだと。
だがしかし、私からすれば「勉強」も「サッカー」も同じ。
世の中には「野球馬鹿」「サッカー馬鹿」「ボクシング馬鹿」「ゴルフ馬鹿」なんて親子は腐るほどいる。
南米にでもいってみなされ。
サッカーは生活の一部でもあるし貧困脱出のための手段でもある。
「勉強馬鹿」がおかしいというなら、「サッカー馬鹿」もおかしいといわねばならない。
勉強における暗記や予習復習は、スポーツにおける筋トレや練習みたいなものだ。
チーム競技とは違うというなら、個人種目スポーツに置き換えればいい。

一流のスポーツ選手は、青春を犠牲にしてその道に全てのリソースに費やした人達だ。
一流の演奏家なんてものはほとんどは幼少からの英才教育だ。
受験生だって同じ。
なんでゴルフ親子が礼賛されて、受験親子が異常な目で見られるのか。

「エリート教育」という言葉にアレルギーがあるなら、これからは「アスリート教育」にしよう。
受験生というのはアスリートなのである。
学校で部活やっている全員が本格的にプロを目指すわけではあるまい。
その一部がプロを目指しておかしなくらいがんばるのだ。
塾に通う受験生であっても、それと同じであろう。
学校に通うということと、塾に通うということは目的が異なるのだ。

スポーツで考えればわかりやすい。
「みんなが受験勉強がんばる」と「塾に行くような教育はおかしい」ということについてだが、
「みんながアスリートに」というのはおかしいし、「アスリートになってはいけない」というものおかしいだろう。
アスリートにならないと生き残れないというなら、アスリートになるしかない。
しかし、アスリートしか生き残れない社会とはどんな社会だろう。

だから、この問題の本質は「社会」の問題なのである。
我々が恣意的に社会に介入しない限り、常に先にあるのは「社会」である。
教育は常に社会に対応する形でしか行われることがない。
社会を変えずして教育が変わるわけがない。

「社会を変えるために教育を変えるのだ。」という意見はあるだろう。
その場合、初めに述べたように「どう社会を変えるのだ?」という問いに答えなければならない。
それは結局、社会を変えるということに他ならないのである。

語弊を恐れずいえば、教育は結果であって原因ではない。
「教育は国の根幹」という意見も聞くが、だからこそ国の根幹を形作る「社会」が先なのである。
教育に責任を転嫁するのは、社会という存在を軽視している証拠であり、本当のところ状況を変えようとする意思がないということなのである。

だって状況を変えるというのは社会を変えるということだから

タムコー問題について

2010-02-09 13:35:53 | 政治
タムコーが民主党に入った。
多分、自民から民主への鞍替えは強く非難されるであろう。
だが、彼自身そんなことわかりきった上でのことだから、選挙で選挙民に判断していただくしかない。

私個人としては、こう思う。
アメリカナイズされた経済通(失礼!)な彼だが自民党にいても活躍の場がなかった。
そういう意味では民主党と経済政策に関する方向性が違ってもたいした問題ではない。
むしろ、民主党に入って経済政策議論に加わった方が日本にとってずっとプラスである。
民主党の弱い部分だからね。

民主党入党について(田村耕太郎)
http://kotarotamura.net/b/blog/?itemid=5397


日本の経済成長や財政再建のためのポイント・オブ・ノーリターン(復活可能な残存限界時間)は二年くらいとみます。二年以内に成長戦略や財政再建を急速に強力に取りまとめないと、日本は衰退の一途をたどることになります。衆議院を3年以上も支配する大政党の経済政策を軌道修正できる可能性は、中に入って頑張るしかないと思います。幸いこのたび「田村君の経済財政分野特に成長戦略について、政府や党での取り組みを高く評価する。大きくわれわれと政策が違うのを前提に、中でしっかり議論してよりよい方向に導いてくれ」と与党幹事長に言ってもらっています。政治家同士ですから、いろんな意図やリスクは想定し承知の上での判断です。
「私は経済政策について考えが違いますよ」と小沢幹事長にもお伝えした。「違うからいいんじゃないか?違うなんて当たり前だろ。だったら中に入って議論していい方向へ変えてくれよ」と言われた。


おそらく、この小沢発言について方々から「参院の椅子欲しさからの建前」と言われるだろうが、私はこれが小沢の本音だと思う。
小沢自身、自分のいう政策が正しいなんて確信していない。
いろんな意見があっていい。
その意見が党のものと違っても、有識者が加わって、その主張がある一定の水準に達していれば党にも影響を及ぼすはずだ。
と考えているだろう。
別に何もする必要はない。

当然、心情的な部分からの反感は買うだろう。
特に自民党関係者から。
民主党内部でも、彼だけ厚遇するのはおかしいという意見が出るだろうと思うかもしれないが、上に述べた理由から小沢は何もしない。
だから問題は起きない。

なぜ自民党は変われないのか

2010-02-09 10:28:15 | 政治
よかった。河野太郎が見識のある人で。

谷垣総裁、これは絶対におかしい(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-713.php


予算委員会、なんせ当選以来初めてだから、いろいろと準備したり、なんやかんやと忙しくしていた。

へぇーっと思ったのは、質問は要旨対応です、ということ。

他の委員会は質問を通告し、答弁の準備をきちんとさせる。予算委員会は要旨だけ前日に通告し、数字等が必要なものは別途通告する。
さすが予算委員会、他の委員会とは違うなあ、大臣もこれだけで答弁しているんだと感心していた。

[中略]

で、厚木の県央経営者会で六時半から講演。終わったところで古川元久副大臣から電話が入る。「おーい、明日答弁頼むね」と電話に出ると、「たろうちゃん、助けてよ」。
「どうしたの」とたずねると、「質問が要旨しか来なくて、霞ヶ関が大変だ」「あったりまえだろそんなの」どうも話がかみ合わない。

どうやら予算委員会は要旨対応というのは、自民党国対が勝手に決めたことで、そんなルールにはなっていないらしい!

「他の党はみんな質問通告してくるけれど、自民党だけは箇条書きで三行とか書いてあるだけで、みんな霞ヶ関がそれ見ながら想定問答を考えて...」「えっ、そうなんだ。今厚木だから、小田急ですぐ戻る」

僕は、外務委員長の時に、質問通告が遅い委員は与野党関係なく、部屋にまで文句を言いに行ったり、もう一度やったら本会議の委員長報告に名前出すぞと脅したり、通告を早くして霞ヶ関の残業を減らす努力を国会もしろと旗を振ってた。

[中略]

自民党、他の議員はどうなっているのというと、みんな下向いて苦笑いする。

谷垣総裁、これはぜったいにおかしい。野党になったからといって、こんなくだらないことをしていたら、国民の支持を得ることはできない。
こんなことで霞ヶ関をいじめてどうするの。

相手が民主党ならば民主党に議論を挑もうよ。


要するにさ、自民党は民主党の実力を侮っているわけです。
ここまで見てると鳩山首相のキャラクターもあってか民主党のやることは滅茶苦茶に見えるし。

自分達よりレベルが低い」と思っちゃってるわけよ。

だから、自民党は先の衆院選での敗北にも反省しないわけです。
だって、相手は自分よりレベルが低いと思っているから、攻め続ければ勝てると思えてくるわけ。
勝てると思い込んでいるのに反省する人はなかなかいないね。

想像してみてよ。
戦争でもスポーツでもいいんだけど、戦争だとあれなのでサッカーで考えてみる。
ちょっと論点が変わっているかもしれないけれど、ここでの主眼は「将来への期待が現在に与える影響」という観点でお願いします。

前回の試合で大差で負けました。
選手の能力も、チーム戦術もこちらが一段レベル高かったのに。
でも、環境が悪かったと。
アウェーで食事も水も馴染まなかったし、レフリーは相手ビイキだし会場では敵の応援がすごかった。
自分達の実力は全く出し切れなかった、むしろ最悪であった。
だが、次は自分達も慣れている第3国で試合がある。
いつも通り実力を出せば勝てると。

そんな時、前回の試合の敗北要因を念入りにチェックしますか?
相手が強いから負けたんじゃなくて、自分達が実力出せなかったから負けたと思い込んでる時に、次回勝利するための最も合理的な戦略は「実力を出し切る。」「無駄なミスをしない。」などじゃないですか?
「実力を出せなかった自分達が悪い」とは考えても「実力が足りない」とは考えないものです。
相手より自分達の方がレベルが上だと思っているからね。
自民党から見た民主党というのは、ヨーロッパ諸国から見たアジアみたいなものです。

しかし!

前回の試合で大差で負けた要因が、環境のせいのみだったのかはわからないじゃないですか。
本当は実力は均衡していたのに、環境のせいで大敗したかもしれないのです。
過去に明らかに実力に差がある場合、「こいつらより俺らの方が格上だぜ。」と思い込んでしまうものです。
でも、時代とともに変わるものですよね。
今ではアジアの国がヨーロッパの国々に勝つこともあります。
その場合、二つの可能性があるはずです。
自分達の実力は変わっていないのに、相手が強くなった。
もう一つは、相手の強さはさほど変わっていないのだが、自分達の実力が思った以上に落ちている。

今、たぶん自民党は後者。
自分達の実力が思ったより落ちていることに気づいておらず、普通に戦えば民主党に勝てると思っている
だから、抜本的な改革なんて行われない。
だって、相手が弱いから改革する必要性感じてないんだもの。
「反省するべきは反省し」みたいな言葉で終わっちゃうわけです。

よって、次の参院選で負けて初めて自民党は「あっ、自分達の実力ってこんなものなのだ。」って理解できるわけです。
その時には、ダメージが大きくなって手戻りが大変だと思いますが。
でも「負けることを理解する」というのは困難なのです。
「負けたくない」という心理的バイアスがかかるので冷静には見れない。

さてさて、この間にも小沢一郎は自民党の兵站破壊に執念を燃やして動いていますよ。
自民党は現在地をよく確認して、攻撃の仕方を変えることです。
自分達の実力は、自分達が思っている以上に低い。」この認識が重要です。
そうすると、
自分達の実力を上げなければならない。」という発想が出てきます。
このまま選挙に突入すると、民主党への不支持による消極的支持しか取り込めず、どちらに転ぶかわからないギャンブルのようなものです。


衆院選後に当Blogでは「まだ自民党は負けていない」と主張した。
それは「自民党は自分達が負けたと思っていない。」という意味である。

※一応両論併記しておく。
予算委の質問を終えて(石破茂)
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-29dc.html

効率化の悪魔

2010-02-08 12:55:55 | 社会
テーマからするとトヨタの問題かと思ったあなた、残念ながら全く違います。

ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由(藤井敏彦)
http://wiredvision.jp/blog/fujii/200802/200802251000.html


ブラッセルに赴任して欧州委員会の官僚を相手に仕事するようになった時、いや驚いたのなんのって。彼らの優雅なこと!昼は2時間かけてランチ。6時にはオフィスは無人状態。夏は一ヶ月間バカンス。おまけに給料ははるかに多い。ワタシ心に誓いました。来世も役人やるとしたらヨーロッパ人に生まれて欧州委員会に勤めようって。


私も以前、ヨーロッパのそこそこ大きい企業と仕事をしたことがあるのですが、働き振りがまったくちがっていた。
まず朝はエコを理由に自転車通勤、会社からヘルメットが支給されたりする。
自転車通勤がいいという話ではなくて、自転車通勤が様になる土地柄と通勤のし易さがいい。
昼休みは2時間で、雰囲気は大学のゆったりした雰囲気に似ている。
のんびりしていて、昼食後にカフェテリアでお茶しながら団欒なんてのが当り前。
そして6時を過ぎると帰宅して家族団らん、あちらは陽が長いのでそこから一日が始まるという感覚すらある。
日本でも「アフター5」のような言葉があるが、なんだろうか、あちらにいると「アフター5から違う一日が始まる」気がしてくる。
たぶん、日本での生活はかなり効率化されているがために、その効率性に劣る、つまり「無駄」を皆が嫌うから
、「効率的にできた」喜びよりも、「無駄をしてしまった」徒労感の方が優先するのであろう。
そのせかせか感が「時間の流れる感覚」を急なものにするのだと思う。
時間の流れは主観的なものだから、人生に対する向き合い方で時間の流れは変わる。

それでもって、あちらでは1~2ヶ月もバカンスで仕事を離れ海外旅行などを楽しむ。
プロジェクトの進行が思わしくなく計画の前倒しを求めた時があったのだが、バカンスを理由に断られた。
「バカンスのために仕事してるようなものだから、バカンスないなんて馬鹿らしくてやってられない。」くらいに言われたのを覚えている。

さらにいえば、彼らは日本人のようにがんばったりしない。
例えば、あるものを商品化しようとした時、その商品が商品として成り立つための基準と言うものが存在するが、とある部品がその基準に満たなかったとする。
その時、日本人ならなんとか期日までに基準を満たすように改善努力を行うだろう。
徹夜や休日出勤など当り前のように。
だが、彼らにその意識は希薄だった。
「いやいや、それがその部品の実力であり限界である。」と。
日本企業であれば、相手の要求を先回りして、相手の期待を上回るサービスやモノを提供したがるのだが、彼らは違う。
日本の企業と協業する時には、感じることのできない「あっさり感」であり、ある意味すがすがしい。
できるかできないかわからないようなものに、計画を無視してまで一生懸命になるのは無駄である。
自分達の実力をよく把握し、その範囲を超えることは求めない。
確かに、その生き方の方が生き易いと思う。

日本人の場合、少しでも改善できる余地があればやってしまう。
トヨタ・ウェイの「カイゼン」は世界語にもなったその代表である。
そこに組織的にも個人的にも成長があると盲目的に信じているかのように、無駄でも何でもチャレンジする。
向うは、そんなちまちましたところにこだわらない。
このあたりは「私的日本人論」で語ろうとは思っているが、これが国として成熟するということの意味なのかと思ったものだ。

最近、タイム誌かどこかで世界で最も魅力的な街に東京が選ばれたが、確かにハードとして東京は突出しているように思う。
ありとあらゆる機能が東京と言う街に集中し、そして極限まで効率化されている。
犯罪率も低い。
これほど機能的な街はなく、近代日本人の都市観を見事なまでに表し、日本人の傑作が東京という街なのだ、そう思う。

都市はどこまでも効率化できると思う。
いや、効率化できるということより、効率化されることを許容するのが都市というものだ。
しかし、人間は効率化できるところばかりではない。
知識は一瞬にして形を変え、そして適応することができるが、体はそういうわけにはいかない。
効率化するものと、効率化しないもの、その住み分けをもう少し考えた方がいい。

最近の経済成長路線や生産性向上重視に対する拒否感というのも、効率化が人間の全てに及ぶ可能性についての直感的洞察なのではないか、ふとそのように思うからである。
両者の誤解を解くには、このような見方を差し挟む余地があるのではないだろうか。

本当は、近代化の過程で議論されなければならなかったテーマなのだが、日本では十分にはなされなかった。
そこには、日本人としての根深い思考停止の原因があるからだが、それは「私的日本人論」で語る予定だ。

バブルになれない

2010-02-05 12:32:01 | 恋愛
至極同感、全くその通り。
古い日本人は過去のみが現実なのであり、未来は現実ではないのである。

朝青龍 相撲界が得たもの(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51422609.html


そもそも、欠点があるものを育てると言う発想がない。相撲界を努力して発展させる、アイデアも能力もないのは仕方ないとして、その気概すらない。

気概のない、かつての相撲取りの方々の存在価値はないどころか、マイナスだ。


私も今ある種の女性バブルかもしれない。
しかし私の場合、バブルが崩壊せぬようギリギリのところで複数均衡状態が保たれている。
小さい頃から、なぜか私の女性バブルは絶頂に至らないようになっている。
何かの力がバブル崩壊を食い止めているように。
私の人生にはスタビライザーが埋め込まれているのだ。
バブルは崩壊せねばバブルでない。のか。
逆説的には崩壊せぬから私のはバブルでないのかもしれない。
バブルになれないのか。

嫌な人生だ。

女性バブル(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51422602.html

「新しい国 日本」

2010-02-05 12:12:11 | 社会
昨日は4つもエントリをUpしてしまった。
Twitterで済むような話をブログでエントリ化してしまうのが多くなってしまう要因であろう。
エントリ乱発は質の劣化も招くので気をつけたいが、もとから高品質をうたってもいないので、それでもいいかなと開き直ろうとも思っている。

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昨日、朝青龍が引退した。
報道の加熱ぶりから思うのだが、マスコミは「小沢一郎の不起訴」よりも「朝青龍の引退」の方が国民的関心は高いと考えているのだろう。
それもそのはず。
どちらも実は重大な問題ではないので、面白い方がよいのである。
どちらも遺恨試合みたいなもので、これがどっちであったて我々の生活に関係してくる話ではない。
(また「右脳の働きが弱ってるんじゃないのか。」とか「想像力がないな。」とか批判されるかもしれないが。)
不起訴じゃ話の展開としてつまらないだけだ。

だから小沢に関する報道を見ていると「不起訴だが検察審査会で・・」とか「不起訴だが黒に近いグレーだ・・」とか、せっかくの面白ネタを使い回そうと「不起訴だが○○」というロジックを無理にはめようとしているように私には見える。

当Blogでは小沢一郎の政治理念をかなり持ち上げてきたが、今回の「政治とカネ」問題では発言をしてこなかった。
その理由は簡単で、どっちでもいいからだ。
「どっちでもいい」とかいうと、誤解して読んだ人から罵詈雑言を浴びそうなので、説明しておく。

今回の小沢ネタも朝青龍ネタも、どちらもいかにも日本人的ネタである。(後述する)
日本人ゆえにこの日本人ネタを思う存分に楽しめるわけだが、だが同時に日本人ゆえに出口を見失っている。
(日本人というくくりで一般化できるほど物事は単純ではないということを認識した上でだ。)
日本人は出来事を楽しむことができるのだが、幕引き方を知らない。
いや、これは「楽しむこと」と「気持ちよく終わること」がトレードオフされているからで、楽しむために終わり方を犠牲にしているのだ。
「はかなさの文化」などもこの認識に立つと理解できるだろう。
要するに、日本人の考える幕引き方はいつも中途半端で、送り手側ではなく、受け手側に幕引きを求めるのである。
「空気を読んで解釈する」ことは受け手責任であり、送り手の責任は空気を醸し出すことだけである。


ちょっと解説しておこう。
日本人は「なんともいえない感じ」を感受する能力に長けていると思う。
いわゆる「空気」といわれるやつだ。
だから、西欧的に「言葉にできない想い」を言葉にしたらダメだし、目に見える形で表現しちゃったらダメなのである。
言語が相対的なもので、観念よりずっと具体的なものだからなのであるから、よってトレードオフになる。
「なんだかさっぱりしないけど、なんか納得できないこと、こういうことだよね。」というのが得意である。

少し話がそれたが、今回の騒動は日本人ネタなのである。
「で、結局、なんだったの?」という問いに答えずに「空気読め」で幕引きされるのである。
これは朝青龍にしても小沢にしても同じである。
日本社会では「心からの謝罪」が「反省」に優先するのである。
だから、いつになっても社会構造が進化しない。
出来事から問題点を抽出し、どう対応すればよいか、という反省がないからである。
日本で言う「反省」とは「自分が悪いと自認し謝罪すること」なのである。


だから日本はダメだというつもりは全くない。
そうではなく、日本社会は「進化しない仕組み」を仕組みとして持っているのである。
そうすることが合理的であった環境が歴史的にあるからである。
これについては、当Blogで何度も繰り返してきたのでここでは説明しない。(後日まとめる)
簡単に述べれば、日本人にとって過去が現実であり、未来は現実でないのである。
徹底的に過去指向現実主義なのである。

小沢の問題も朝青龍の問題も「結局なんだったのか?」「で、今後はどうすればよいのか?」の話が徹底的に欠けている。
例えば小沢の問題にしても「黒か白か」を決めようとする議論は生産的ではない。
「黒に限りなく近いグレー」はどの世界にも至るところにあるだろう。
取り締まる側からしてみれば、コストパフォーマンスの観点から怪しいものを全て調査することはできない。
取り締まる側が「一罰百戒」を狙うのは合理的であるし、そのために「強い者を狙う」のは当り前である。

だから、「捜査の透明性の確立」や「グレーゾーンを限りなく小さくするための法整備」、「政策決定に利権が入り込むことを防ぐための科学的政策決定手法の導入」など、やるべきことは多々ある。
法律に不備があるなら、法律を立法するなり改正するなり、ガイドラインを作るなり、やるべきことがあるだろう。
いつも、そういう議論に終に入らないことこそ、日本人的なのである。

安部首相は「美しい国」とスローガンを掲げたが、「新しい国」なんかどうだろう。
「新しい公共」よりいいんでは。
多分保守な人達にぶったたかれるのだろうけど・・

Just Idea で責任もちませんが

「トヨタ・バブル」の崩壊

2010-02-04 20:40:38 | ビジネス
「トヨタ・バブルの崩壊」
リーマンショックを契機にごく一部の識者が訴えていたが、公になることはなかった。
マスコミにとってトヨタは大スポンサーであるので、トヨタの機嫌を壊すことを恐れるからだ。
実際、トヨタやキャノンなどは自社に都合の悪い情報を流されると、そのメディアに対する広告を止める手段に出る。
民間放送局がスポンサーからの広告料から成り立っている以上、避けられない事態ではある。

My News Japanの渡邉氏は、この問題に最も詳しい一人だと思う。
彼は「企業ミシュラン」などで様々な企業のインサイダーに取材をしていて、見かけじゃなく企業の内実に詳しい。
トヨタの問題も以前から取上げていたが、どこも取り合ってくれなかったようだ。
(ジャーナリストの田原総一郎氏は、彼のことをえらく認めてくれているらしいが)

『報ステ』トヨタ報道がデタラメな件(渡邉正裕)
http://www.mynewsjapan.com/blog/masa/107/show


トヨタは国内では既に、2004年と2005年に188万台超のリコールを出して、国内販売台数を超えていたからだ。国内でも起きたことが海外でも起きただけ。国内の部品メーカーに作らせようが米国現地メーカーに作らせようが、設計はトヨタがやって下請けに作らせるだけなのだから、企業の国籍は関係がない。

[中略]

国内でもリコール王だったトヨタが、その体質のまま、相似形で世界のリコール王になっただけ。本来ならば、グローバル展開を急激に進める前に、品質管理などを徹底し、過去のリコール車の改修を終え、準備が整ったところで世界1000万台を目指すべきだった。なにしろ、リコール台数ナンバー1企業だ。

しかし、トヨタを止める者はいなかった。ここに、今回の問題の本質がある。ジャーナリズムも、国交省も、政治家も、全部グルの共犯だった。1000億円の広告宣伝費で口止めされたマスコミ、愛知万博などイベントで協賛を得たい官僚、政治資金と選挙の票が欲しい政治家。政官業のパーフェクトな癒着だ。

[中略]

そのモデルは、あくまで日本でしか通用しない仕組みであって、それをグローバル展開できると勘違いしたところに、今回の問題の本質がある。つまり、今回のリコール事件は「日本の戦後モデル崩壊の象徴」ともいえる。


いや、実は私も以前から「トヨタ・バブル」について書きたいと思っていたが、個人的心情により書けないでいた。
なぜなら、私にとって「トヨタ」とは、生まれた時から生活の一部であったからだ。

あまり個人的なことは書くのもどうかと思ったが、せっかくだから少しだけ語らせてもらおう。
(興味のない方はここから先は読まない方がいいです。)

実は、私の親も祖父も職業はトヨタ社員である。
祖父は戦前からトヨタであったし、私の父もその後をおった。
父は初め電力会社に行くつもりだったようだが、トヨタの方が金になると思って決めたとか。
小学生の頃、親に「どうしてその仕事についたのか?」を聞いてくる宿題が出たことがあった。
同級生達がそれは素晴らしい立派な大人の意見を述べている中、私だけ「金。」ただそれだけという理由だった。
周りの反応がシラケたものだったことを覚えている。
今なら「ユーモラスな親だ」と思えるかもしれないが、当時の私には恥ずかしいだけであった。

また、私の父は仕事人間で、朝早く夜遅いうえ、休日もいなかった。
年に何日か休みがあると思ったら、趣味のため外出していて、時代も時代であったが家族サービスなんてものはほとんどなかった。
そういう家庭に育つと親への愛を渇望する子供に育つらしいが、私は違った。
休日に父親が家にいると邪魔で仕方なかった。
子供心に思ったが、私にとって父親とは単にスポンサーという位置づけになっていた。
そう思わざるを得ない環境が、そう思わせたのかは定かではないが。
彼がいないと生活ができないが、できるだけ彼には自分の生活に入ってきて欲しくないと思っていた。
何時からかわからないが大学に入学するまで会話をした記憶がほとんどない。
私は自分自身が結婚するまで家族なんて信じていなかったが、こういう生い立ちに要因があるように思う。
ポストモダン的目覚めに助けになったという意味では感謝している。
人は師匠がどっち向いていたって学べるのだ。
学べるなら教師でも反面教師でもいいことに気づかされた。

父は私が生まれる前は製造にいたらしいのだが、その後営業に転進したようだ。
もともと彼は商売上手な人なので、そこで彼の才能は如何なく発揮された。
成績優秀で表彰されたことは数え切れない。
昔、休日営業が主流でなかった頃に、彼は休日営業に力を入れていた。
周囲はみな反対したらしいが今では主流になったと、今でも私に自慢をする。

彼の営業によって築かれた人脈は広く、父は何をするにもコネを利用して生きていた。
私は小さい頃、どこへ行くにもコネで割り引いてもらう父の姿がとてもあさましいものに見えて、嫌だった。
彼の立場からすれば、むしろ誇らしいことだったのかもしれないが、私は他とは違う条件を引き出すということが良いことのようには思えなかった。
時代が違うとはいえ、コネが優先される社会を見てきたからか、真面目に競争するのがあほらしく思えた。
レースというものに平等を期待する方が間違っていると子供心に思ったものだ。
見かけとは関係が無く、なんでもルールを作るほうが有利なのだ、ルールの抜け道を知っていて、それを面従服背で使いこなすのが日本人というものだ、私の心にはそう刷り込まれた。
だから、私は今も一部のパワープレーヤに有利なルールを改めるべきだと主張している。
私の利権政治嫌いはここから着ているのだろう。

話がそれすぎたが、私が生まれた時から「トヨタ」は私のそばにあって、当たり前の存在であった。
それは親近感とも反発とも違う、複雑な感情だ。
「他人じゃないけれど、でも抱き合いたくはない、あえて言及もしたくない感じ。」と言ってわかってもらえると嬉しい。

だから私には「トヨタ」を批判する気になれないでいる。
多分、今私が勤めている会社よりも、批判できない。

ただ、父に聞いたことがある次の言葉を思い出した。


私:「なぜトヨタは日産の2倍も売れるの?」

父:「ん?」

私:「車の性能がいいの?」

父:「性能に違いはないね。」

私:「え?じゃなに?」

父:「販売力の差だよ。」


今になって響くこの言葉。
わかってもらえるとうれしい。

ブログ近況報告 (2010/02/04)

2010-02-04 15:03:53 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。
(このブログ近況報告に特段意味はございません。)

さて、前回「恋愛ブログ宣言」を声高らかにうったえたわけですが、やはり腰砕けてしまいました。
思いつきの意志などは長続きしないものです。
この想いも長続きはしないものなの・・か。
刹那主義ではなく、この「今、ここ」をどう掴むか、いやどう生きるか、「はかなさ」に対する考え方など、難しい問いは数多いものです。

別に感傷的になっているわけではないですが。
ただただ、そのようなことを考えていただけです。

それはそうと内田樹の「日本辺境論」を読んではや1週間経つわけですが、最近のエントリはこの影響を多分に受けたものとなってしまいました。
(最近読んだ本の中では一番自分の趣味に合っていたということだと思います.)
今思えば、初め通して読み終わった時には半分程度しか理解できていなかったと思うのですが、しかしようやくだいぶ消化し内面化できてきました。
他人の考えを完全にトレースすることはできませんが、主張の要点のうちの8割程度飲み込めれば上出来だと考えています。
時間のある時に考えをまとめたいと思います。

さて、当Blogではコメントやトラックバックについてフリーにしております。
当Blogの主張の批判でも、間違いの指摘でも、または感想でもなんでも気軽にコメントなどいただけると嬉しいです。
勉強させていただきます。

ただし、内容が誹謗中傷のみを目的とした場合や、エントリ内容と全く関係がない場合など、削除させていただくことがあります。
しかし、これまで一度も削除しなければならない機会には遭遇しておらず、これも皆様のご協力のおかげと感じております。

それと、私自身の理解を超えるような内容の場合、お答えできないこともあろうかと思いますが、お手柔らかにお願いいたします。

今後ともよろしくお願いいたします。


それと・・最近エントリ数を増やすトレードオフとして一つひとつの質が落ちている気がしています。
いや、もともと質は低かったといわれるとその通りなのですが、難しい問題です。

[追記]
こ、この組み合わせは因縁対決ですか・・是非見たい。
http://news.livedoor.com/article/detail/4587865/

是非、亀井静香氏を郵政社長に

2010-02-04 12:05:44 | 政治
亀井金融相「郵政の非正規社員、希望者すべて正社員に」 (NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100203ATFL0307903022010.html


亀井静香金融・郵政担当相は3日夕、郵政事業の見直しについて「非正規社員の中で正規社員を希望する人は正社員にする」と述べ、日本郵政グループが抱えるパートやアルバイトなどの非正規の社員のうち希望者はすべて正社員にする意向を明らかにした。


これはきてる・・。
どこまで介入するつもりなのか。
郵政国営化はほんとうだった。

TV番組で竹中氏と討論しているのを何度か見かけたが、亀井氏ってどこか都合のよいところで都合よく思考停止してるんだよね。
(司会者に力がなくて「平行線ですね」なんて言われて巧く対峙してると思っちゃってるかもしれないけど)
それ以上の理由を求めない。
なぜなら、初めから結論が決まっているから。
典型的な「結論に合わせて事実を作る」人間なんだな。
現実に合わせて思考を変えるのではなく、自分の考えに合わせて事実化しちゃう。
こういう人は、理屈じゃないから突破力があって、利権者にとってはありがたいんだけどね。
日本の政治における意思決定って「人間関係」で決まるから。

政治は理屈じゃねぇんだぜ!

そういう言葉がかっこよく決まるくらい、普段の政治が理屈で動いてくれるとありがたいんだけどな。

しかし、↓これはちょっと私とは違うな。

日本郵政、非正規を政府命令で正社員化? 税金を1円も使わないなら亀井大臣ご自由に
(宮島理)
http://miyajima.ne.jp/index.php?no=r290


事実上再国営化された日本郵政に未来はないが、もし実行されればこの亀井プランがとどめをさすだろう。グローバル化による競争と多様な働き方というニーズを踏まえたうえでの解雇規制緩和や均衡待遇、セーフティネット拡充ではなく、“みんな正社員にしてやるぞ! 馬車馬のように働けよ! ガッハッハ”というところが、1970~1980年代の成功体験を引きずっている政治家の典型である。
 税金を1円も使わないなら、勝手にやればいい。それで日本郵政が破綻したとしても、知ったことではない。ただ、事実上再国営化されたということは、経営のミスはすべて税金で穴埋めされるということである。亀井大臣の“小泉憎し”の「改革」につきあわされるのはゴメンだ


亀井氏の本意を知らないのでなんともいえないが、ただ違うんですよ。
亀井氏を郵政の社長にして差し上げればいいんです。
そうすればトレードオフという現実を身を持って体感して目覚めます。
自分に想像力が欠けていることを。

[ここから追記]

ゆうちょ銀の資金、米国債で運用も 亀井大臣が見解
http://www.asahi.com/business/update/0204/TKY201002030498.html


亀井氏は記者団に対し郵政見直しについて「手足を縛られて営業をしているわけだから、現実にあった形にしていく」と発言。昨年12月末で約180兆円のゆうちょ銀行の貯金残高の増加が見込めるとした上で、米国債など日本国債以外の運用が「もう少し増えると思う」と述べた。


べ、米国債の運用を認める??!!

この手のひら返しは・・ほんと?

↓この人は発想が豊かですね・・。このくらい発想力がないと脳科学者はやれんですたい。

ゆうちょ銀の預金、米国債購入へ、時限爆弾に火がついた。(苫米地英人)
http://www.tomabechi.jp/archives/50985467.html


小沢幹事長不起訴のニュースだが、合わせてまるで取引するかのように流れた「ゆうちょ銀行の180兆円の資金運用を米国債でする」という亀井静香金融・郵政改革相の発言は、要ウォッチ対象だ。

国家と科学とには適度な距離が必要だが、日本では科学が遠すぎる

2010-02-04 10:32:48 | 経済
いや、国家が科学に遠すぎるのか・・

地上波の報道番組のほとんどはワイドショーだと思っているが、BSやCSには結構有用な番組が多い。
視聴者が少ないから番組の影響力が小さく、これが逆に比較的に言いたい事が言える環境を生むのだろう。
ノイズとのトレードオフではあるので、バランスに欠き全く見る気の起きないやつも結構あるが、薬にも毒にもならない地上波よりはマシかもしれない。

そういう意味で当Blogも弱小Blogだからこそ、味が出せると再確認する今日この頃。
発言全てに責任を持つのは大変なので、細々と路地裏Blogを目指そうと思います。
まぁその前にこのブログの目的とか想定読者とか全く考えていないわけではありますが。

最近、高橋洋一氏が本格的にカムバックしたようだ。
彼は理系出身のためか、正しいかどうかは別として話が論理的でわかりやすい。
理系出身者が多い鳩山内閣だが、全く理系っぽい運営でないのはなぜだろう・・。
まぁ理系・文系のくくりで物事を考えるのはあまり生産的でないとお叱りをうけそうですが。

鳩山経済を科学する - 宮崎哲弥(1/4)

日本には「新しい公共」より「個人の定義」が必要だ

2010-02-03 15:22:22 | 社会
鳩山首相の唱える「新しい公共」が十字砲火を浴びている。
私も「実際に出てくる社会主義色の濃い政策」に辟易している1人だが、ただ私は「彼の問題意識」は間違っていないと思う。
広義に「問題意識」を捉えられると困るが、ここでいうのは「問題として着眼する"点"」は決して間違っていないということだ。
彼に足りないのは、その点(問題)を深堀りし、他の問題との相互関係(線)を明らかにし、さらにその根底で眠っている根本的な構造的問題(面)を解き明かす姿勢であり、また「その姿勢の必要性への気づき」だ。


念のため予防線を張っておくが、私は鳩山首相の問題意識を認めているのではなく、鳩山首相の問題意識を想起させている源にある点(問題)を、問題として設定することは間違っていないと述べているのである。

先日のエントリ(鳩山首相の施政方針演説「いのち」と「卵と壁」)でも述べたように、"政治の在り方"として「政治は正しいと間違いとに関わらず弱者の側に立たねばならない。」という命題について、私は否定しない。
「弱者」というものは、間違う故に弱者なのであり、それと同時に弱者である故に間違うのだ。
それは「人そのものという弱者」のことでもある。

人間を人間として見た時、そこに「弱さ」があるわけではない。
しかし、人間を人そのものとして見た時、そこに確かな「弱さ」がある。
言い換えよう。
人間という「存在」そのものに「弱さ」があるわけではない。
人という個人が生きるということそのものが、人間が本態的に持つ真なる意味での「弱さ」なのである。

人類は、その歴史の中で、「弱さ」を克服せんとする努力を重ねてきた。
その代表的なものが「宗教」である。
(宗教とは一言で語れぬものであるが・・)
誤解を恐れず言えば、「宗教」とは、「強さである神」と「弱さである己」を対置することで「弱さを正当化」する処方箋である。
自分が弱いということを認め、そしてその弱さを克服する名目(克服可能であること)を高らかに宣言することを可能とするのだ。
人間が持つ「生きるという弱さ」を克服できると考えるところに宗教の存在意義がある。


内田樹が日本辺境論で述べたのは、この宗教観を日本人とユダヤ人は共有していないという分析であった。
日本では宗教教育がないにも関わらず、道徳教育が間接的に成立している理由について彼は説明する。

だから、西欧では「平等で自由な個人」を定義する。
宗教が個人を正当化することを許すからだ。

一方、日本ではどうか。
日本は長らく「個人」よりも「和」が尊ばれた。
(もちろん理由はある。なぜそうなのかは後日。)
一般にいう「和の精神」などという浅い概念をここで述べているのではない。
理解し難いところなので、逆に言えばわかりやすいので言い換える。
「平等で自由な個人」の概念そのものが日本社会から欠落しているといってもいい。
だから、太古から日本という国の政策はことごとく「個人を想定していないもの」ばかりであった。
日本に「個人」はいないのだ。
(「個人」が何を指すかということを理解するためには、宗教や民主主義に関する知識が必要だ)

少し乱暴な意見だが、「平等で自由な個人」を「自己アイデンティティ」とするなら、日本人にとって「自己アイデンティティ」とは「関係」であった。
個人というものは存在せず、関係の中で自己アイデンティティが定義されるのである。
他との関係の中で自己アイデンティティが規定されるという意味ではなく、和、環境として自己が存在するという意味で、つまりは個人が存在しないということだ。
ゆえに日本の歴史の中で重要視されるのは個人ではなく、和、組織、環境というものであった。

下記の番組は多くの人に衝撃を与えただろう。
(これは文章で見るより、映像で見たほうが衝撃的だ)

NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10449424956.html

「会社」というものが自己アイデンティティであるなら、定年すれば自己を喪失することを意味する。
「家族」というものが自己アイデンティティであるなら、離婚、生涯未婚もまた自己の喪失を意味する。
これが「共同体」を失うということの意味である。

日本人は気づけば「共同体」という自己アイデンティティの映し鏡を失った。
自立しない剥き出しの「個人」が顕になったのだ。
しかし、日本に平等で自由な個人を看取ってくれる神はいない。
もはや日本人は、思い出の中にしかアイデンティティを見出す場所がない。
これが社会的ノスタルジーの潮流の原因だ。

高齢者の増加、剥き出しの個人の増加、不安に駆られる国民、

鳩山首相が、この状況を問題視し「新しい公共」によって剥き出しになった「個人」を守ろうと考えているのであれば、私はその考えに強く賛同する。
だが、問題は「個人の守り方」の方だ。

"新しい"公共というのだから、これまでの既存の考え方を脱却して頂きたい。
「セーフティネット」という言葉で思考停止せず、ハードではなくソフトの問題に目を向けるべきだ。
もちろんトレードオフもある。
「できること」と「できないこと」の判断を迫られることも多々あるであろう。
しかし、今求められているのは発想の転換である。

本エントリでここまで述べたことを理解できたら、次に何を考えればいいかわかるだろう。

「新しい公共」のヒントがここにある。
今のセーフティネット議論に致命的に欠けているのは「個人」の定義そのものである。


めんどうになったので続きは後日・・。
「個人」があるのとないのと何が違うのか。
それは問題設定の仕方が違う。
現実に先立って現実を創造するのが「個人」、現実に後追いで現実を認識するのが「非個人」
日本には「個人」がいないが、「個人」がいると想定されている。

安治川親方の侍魂

2010-02-03 12:17:08 | 社会
私は、小幡氏のキャラクターが好きだ。

「ユーモラス」と「本気」の間に「ユニークさ」が存在している。
なんだろう、これは言葉では表現しにくいのだが、彼は一応准教授というそれなりに言葉に重みを求められるであろう立場にいるにも関わらず、自然と彼に絶対的な正しさを求めない感じふうわふわとある。
いや、「正しいかどうかなんて関係ない」というより、正しさなんか存在しないところに彼がいて、彼が言ったことが事実になる。
それは現実とは関係なしにそこでは事実なのだ。
でもきっとそれはギャンブルと同じなのだと思う。

意味不明か。

市場と人生(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51421492.html


市場も分からないが、人生は、さらに分からない。

大相撲の安治川親方が辞職したが、彼の人生はどうなっていくのか。見守りたい。

論理的に考えれば、安定した人生を捨てて、何も得るものがないように見えるが、気持ちで動いてしまった彼の馬鹿な行動が、彼の人生に何を呼び込んでいくのか。

研究者としても、人間としても、やはり、見守りたい。


私は「安治川親方が安定した人生を捨てた」と判断するには早計だと思う。
「(計算高く)このまま親方続けても利益はさほどない。」と考えた可能性だってある。
ただ、私が強く思うのは、業界の人間には「馬鹿な行動」にうつるその行動が、結果として何をもたらすのかは定かではないということだ。
その不確かさを受け入れて、つまり合理を超越した判断をしたのだとすれば、私は「まだ日本に武士道は生きていた。」と思わざるを得ない。

これは内田樹からの受入れだが、新渡戸稲造によると「武士道とは合理を超越したもの」なのだそうだ。
Honesty pays in the long run.のpayすることを期待しないことなのだとか。
結果として客観的に利益をもたらすかどうかは関係のないことだそうだ。

なるほど。