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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

日本を内側から蝕むウィルス:「個人」と「社会」

2010-02-10 11:56:47 | 社会
自分のコメントがあまりにハマッた感があるので自分のブログに掲載。
(なんと人間の小さいことか!)

自分が悪い 助けてといわない若者 (原淳二郎)
http://agora-web.jp/archives/917457.html


[自分のコメント]
この問題の本質は「社会」と「個人」との間に隔絶が起きはじめているということです。
近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが、なんと日本では逆転現象が置き始めている(そもそも「個人」が存在しなかったという問題設定も有るだろう)。政府が福祉国家的な社会を目指して「個人」の「社会」への取り込もうとしているのに反して、「個人」は「社会」から離れていく。アメリカと違うのは国家に対する積極的不支持ではなく消極的失望的不支持ではあるが。オバマのように「物語」によって「個人」を繋ぎとめることができるのか、否か。経済構造の脱近代化が迫られている今、まさに日本における脱近代社会の夜明け。
これは人類にとって長期変動的な流れである。などと愚考します。


まぁ、いつも書いてることなので当Blogとしては新規性無しですが。
ただ、当Blog内の世界だけで物事を考えると(意味不明)、日本を覆う閉塞感の問題は下記を外しては成り立たないということがわかります。
(そういえば「閉塞感を打破する方法はあるか」シリーズを途中から更新していないことを思い出す・・)

「個人」と「社会」への関わり方

これが時代とともに変化してきているんですね。
日本の場合「個人」は存在しなかったといわれておりますし、これは有名な話ですが、明治時代になるまで「社会」という言葉はありませんでした。
日本という国には、ある時に突然「個人」と「社会」が入り込んできたのです。
日本人の知らぬ間にしれっと。
皆が気づくと「個人」と「社会」はそこにあった。
だから、日本人は「個人」と「社会」への関わり方についてなんら深い洞察も得ていないし、むしろ苦しめられている。


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気づくと彼女(/彼氏)と自分の部屋で同棲していた。
初めは楽しかったから細かいところは気にしなかった。
なかなかかわいいし(/かっこいいし)家事も手伝ってくれる。
1人ではなんでもないことが、2人だととてもいいものに思えてくる。
そんな同棲生活が続いた。

だが、最近は一緒の空間にいることが辛い時もある。
なんだろう。
そういえば、いつ、何を理由に同棲をしたのかよくわからなくなっていた。
この同棲生活の行き着く先についても考えていなかった。
何を目指していたのだろう。
いや、何も目指していなかったのだろうか。
それすらよくわからない。

なんだろう。
楽しいはずなのに、何かが抜け落ちている感じがするんだ。
ふとしたときに。
何かが変わったのだろうか。
お互いにお互いのことを前よりわかってきたというだけで、他に変わったことはないはずだが。
それを相手に悟られないように努力している自分もいたりして。
無駄な徒労感を感じてしまうときがある。

これが恋愛ってものなのだろうか。
別に何も得るものはないが、悟ったようにそう思う。

俺(私)って何がしたいんだったっけ?


物語風にたとえてみました。
ちなみにこれは空想で、個人的経験とは一切関係がありません(笑)

教育は結果であって原因ではない

2010-02-10 11:17:17 | 社会
批判もあるかと思いますが、コメントして頂けると勉強になり助かります。

ほんと日本における教育議論は成熟しないな・・。
(教育だけでなしにあらゆる議論が成熟することないけれど)
しかし、これは日本が国家として社会像を持っていないから当り前である。


以前コメントで「教育問題に関する認識が甘い」のようなご指摘を頂いたが、その時に私は「教育とは教育機関の問題ではなく、社会の問題だ。」という主旨の回答をしたことがある。

まともな教育学者がいないとか、教育関係者のレベルが低下したということが問題なのではない。
目標設定なしに答えが見出せるわけがない。
教育が目指すべきところがないのだから、教育に関する議論も施策も全てがパッチワーク的になる。
中・長期的な目標がないので、目の前で起きる問題について対処する自転車操業的な対応を迫られ、現場の徒労は報われない。
株価の値の上がり下がりに一喜一憂する心理と同じ。
長期トレンドを無視して短期的なノイズに惑わされるのは、人間の特性でもあるのだが。

少し考えればすぐわかるはずだ。
社会として「こうあるべき姿」を定義することなしに「どう人を育てるべきか。」について話ができるわけがない。
「新人割当てたから育てておいて」と言われたらどうするだろう。
たぶん、どう育てたらよいか指針がなかったら、"自分が正しいと思う方向"に育てるだろう。
昔のように皆が似たような価値観を共有している社会ではそれでもいいだろう。
誰が育てても分散は低いし、分散が低いことが求められているから。
でも、価値観が多様化した近代社会では、誰かにとって正しいことが他の誰かにとっても正しいとは限らない。
自分が正しいと思って育てたら、後から他の人がいうのだ。
「なんでそんな育て方をしたのだ?!」と。

今、まさに日本で起きていることがそれ。
「あいつらの思い込みで人を育てている。」
「教育方針が時代遅れなんだ。」
「そんな教育では人間性が・・・。」
「教育とは・・・なものだ。」


そもそも日本における議論って「議論」じゃなくて「討論」だと思う。
議論の目的が、解決策を見出そうとすることではなく、ひたすら「自分が正しい」とか「それは間違っている」と言うためのものだから。
誰も答えを出そうとしていない状況は、いかにも日本的である。
しかし、一方で日常的に答えを求められるビジネス・シーンでご活躍の皆様方が「お前ら答えを出そうとしていない!」と主張をすると、逆に「答えを急ぎすぎている。」「答えがない問題なのである。」という批判がなされる。
方や「答えのない問題を議論している。」という人達がいて、もう一方に「議論で答えを出そうとしていない。」という人達がいる。
どちらが正しいのか。
実は、どちらも正しいか、どちらも正しくない。
というのは、そもそもほとんどの議論は「答えのない問題に答えを出す」ことだからである。
矛盾しているわけではなく、それが相対性というものなのだ。
(この話は過去に腐るほどしたし議論が発散するので繰り返さないことにする。)


さて、なぜ突然教育の話をし始めたかというと、次の記事を見たからである。
本当はこの問題について山ほど話がしたいことがあるのだが、とにかく書くのが面倒なので結論だけ述べることにする。

教育の改革は火急の問題(松本徹三)
http://agora-web.jp/archives/915751.html

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ (藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

様々なところで話を聞くにつれ、人々は「勉強」について特段の思い入れがあるのだと思う。
「勉強」はとても基本的で重要なものだと。
だがしかし、私からすれば「勉強」も「サッカー」も同じ。
世の中には「野球馬鹿」「サッカー馬鹿」「ボクシング馬鹿」「ゴルフ馬鹿」なんて親子は腐るほどいる。
南米にでもいってみなされ。
サッカーは生活の一部でもあるし貧困脱出のための手段でもある。
「勉強馬鹿」がおかしいというなら、「サッカー馬鹿」もおかしいといわねばならない。
勉強における暗記や予習復習は、スポーツにおける筋トレや練習みたいなものだ。
チーム競技とは違うというなら、個人種目スポーツに置き換えればいい。

一流のスポーツ選手は、青春を犠牲にしてその道に全てのリソースに費やした人達だ。
一流の演奏家なんてものはほとんどは幼少からの英才教育だ。
受験生だって同じ。
なんでゴルフ親子が礼賛されて、受験親子が異常な目で見られるのか。

「エリート教育」という言葉にアレルギーがあるなら、これからは「アスリート教育」にしよう。
受験生というのはアスリートなのである。
学校で部活やっている全員が本格的にプロを目指すわけではあるまい。
その一部がプロを目指しておかしなくらいがんばるのだ。
塾に通う受験生であっても、それと同じであろう。
学校に通うということと、塾に通うということは目的が異なるのだ。

スポーツで考えればわかりやすい。
「みんなが受験勉強がんばる」と「塾に行くような教育はおかしい」ということについてだが、
「みんながアスリートに」というのはおかしいし、「アスリートになってはいけない」というものおかしいだろう。
アスリートにならないと生き残れないというなら、アスリートになるしかない。
しかし、アスリートしか生き残れない社会とはどんな社会だろう。

だから、この問題の本質は「社会」の問題なのである。
我々が恣意的に社会に介入しない限り、常に先にあるのは「社会」である。
教育は常に社会に対応する形でしか行われることがない。
社会を変えずして教育が変わるわけがない。

「社会を変えるために教育を変えるのだ。」という意見はあるだろう。
その場合、初めに述べたように「どう社会を変えるのだ?」という問いに答えなければならない。
それは結局、社会を変えるということに他ならないのである。

語弊を恐れずいえば、教育は結果であって原因ではない。
「教育は国の根幹」という意見も聞くが、だからこそ国の根幹を形作る「社会」が先なのである。
教育に責任を転嫁するのは、社会という存在を軽視している証拠であり、本当のところ状況を変えようとする意思がないということなのである。

だって状況を変えるというのは社会を変えるということだから