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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

バブルになれない

2010-02-05 12:32:01 | 恋愛
至極同感、全くその通り。
古い日本人は過去のみが現実なのであり、未来は現実ではないのである。

朝青龍 相撲界が得たもの(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51422609.html


そもそも、欠点があるものを育てると言う発想がない。相撲界を努力して発展させる、アイデアも能力もないのは仕方ないとして、その気概すらない。

気概のない、かつての相撲取りの方々の存在価値はないどころか、マイナスだ。


私も今ある種の女性バブルかもしれない。
しかし私の場合、バブルが崩壊せぬようギリギリのところで複数均衡状態が保たれている。
小さい頃から、なぜか私の女性バブルは絶頂に至らないようになっている。
何かの力がバブル崩壊を食い止めているように。
私の人生にはスタビライザーが埋め込まれているのだ。
バブルは崩壊せねばバブルでない。のか。
逆説的には崩壊せぬから私のはバブルでないのかもしれない。
バブルになれないのか。

嫌な人生だ。

女性バブル(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51422602.html

「新しい国 日本」

2010-02-05 12:12:11 | 社会
昨日は4つもエントリをUpしてしまった。
Twitterで済むような話をブログでエントリ化してしまうのが多くなってしまう要因であろう。
エントリ乱発は質の劣化も招くので気をつけたいが、もとから高品質をうたってもいないので、それでもいいかなと開き直ろうとも思っている。

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昨日、朝青龍が引退した。
報道の加熱ぶりから思うのだが、マスコミは「小沢一郎の不起訴」よりも「朝青龍の引退」の方が国民的関心は高いと考えているのだろう。
それもそのはず。
どちらも実は重大な問題ではないので、面白い方がよいのである。
どちらも遺恨試合みたいなもので、これがどっちであったて我々の生活に関係してくる話ではない。
(また「右脳の働きが弱ってるんじゃないのか。」とか「想像力がないな。」とか批判されるかもしれないが。)
不起訴じゃ話の展開としてつまらないだけだ。

だから小沢に関する報道を見ていると「不起訴だが検察審査会で・・」とか「不起訴だが黒に近いグレーだ・・」とか、せっかくの面白ネタを使い回そうと「不起訴だが○○」というロジックを無理にはめようとしているように私には見える。

当Blogでは小沢一郎の政治理念をかなり持ち上げてきたが、今回の「政治とカネ」問題では発言をしてこなかった。
その理由は簡単で、どっちでもいいからだ。
「どっちでもいい」とかいうと、誤解して読んだ人から罵詈雑言を浴びそうなので、説明しておく。

今回の小沢ネタも朝青龍ネタも、どちらもいかにも日本人的ネタである。(後述する)
日本人ゆえにこの日本人ネタを思う存分に楽しめるわけだが、だが同時に日本人ゆえに出口を見失っている。
(日本人というくくりで一般化できるほど物事は単純ではないということを認識した上でだ。)
日本人は出来事を楽しむことができるのだが、幕引き方を知らない。
いや、これは「楽しむこと」と「気持ちよく終わること」がトレードオフされているからで、楽しむために終わり方を犠牲にしているのだ。
「はかなさの文化」などもこの認識に立つと理解できるだろう。
要するに、日本人の考える幕引き方はいつも中途半端で、送り手側ではなく、受け手側に幕引きを求めるのである。
「空気を読んで解釈する」ことは受け手責任であり、送り手の責任は空気を醸し出すことだけである。


ちょっと解説しておこう。
日本人は「なんともいえない感じ」を感受する能力に長けていると思う。
いわゆる「空気」といわれるやつだ。
だから、西欧的に「言葉にできない想い」を言葉にしたらダメだし、目に見える形で表現しちゃったらダメなのである。
言語が相対的なもので、観念よりずっと具体的なものだからなのであるから、よってトレードオフになる。
「なんだかさっぱりしないけど、なんか納得できないこと、こういうことだよね。」というのが得意である。

少し話がそれたが、今回の騒動は日本人ネタなのである。
「で、結局、なんだったの?」という問いに答えずに「空気読め」で幕引きされるのである。
これは朝青龍にしても小沢にしても同じである。
日本社会では「心からの謝罪」が「反省」に優先するのである。
だから、いつになっても社会構造が進化しない。
出来事から問題点を抽出し、どう対応すればよいか、という反省がないからである。
日本で言う「反省」とは「自分が悪いと自認し謝罪すること」なのである。


だから日本はダメだというつもりは全くない。
そうではなく、日本社会は「進化しない仕組み」を仕組みとして持っているのである。
そうすることが合理的であった環境が歴史的にあるからである。
これについては、当Blogで何度も繰り返してきたのでここでは説明しない。(後日まとめる)
簡単に述べれば、日本人にとって過去が現実であり、未来は現実でないのである。
徹底的に過去指向現実主義なのである。

小沢の問題も朝青龍の問題も「結局なんだったのか?」「で、今後はどうすればよいのか?」の話が徹底的に欠けている。
例えば小沢の問題にしても「黒か白か」を決めようとする議論は生産的ではない。
「黒に限りなく近いグレー」はどの世界にも至るところにあるだろう。
取り締まる側からしてみれば、コストパフォーマンスの観点から怪しいものを全て調査することはできない。
取り締まる側が「一罰百戒」を狙うのは合理的であるし、そのために「強い者を狙う」のは当り前である。

だから、「捜査の透明性の確立」や「グレーゾーンを限りなく小さくするための法整備」、「政策決定に利権が入り込むことを防ぐための科学的政策決定手法の導入」など、やるべきことは多々ある。
法律に不備があるなら、法律を立法するなり改正するなり、ガイドラインを作るなり、やるべきことがあるだろう。
いつも、そういう議論に終に入らないことこそ、日本人的なのである。

安部首相は「美しい国」とスローガンを掲げたが、「新しい国」なんかどうだろう。
「新しい公共」よりいいんでは。
多分保守な人達にぶったたかれるのだろうけど・・

Just Idea で責任もちませんが