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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「国母問題」の本質 私的日本論の側からの考察

2010-02-18 16:38:48 | 社会
ttosiさんはじめ、皆様からのコメントに期待しています。

スノーボードの国母選手の問題で書きたいことは山ほどあったのだが、既に見識ある(?)人々のブログで取上げられていたので、あえて静観していた。
ところが、当Blogのベテラン・コメンテーターことttosiさんに意見を求められたので黙っているわけにはいかない。
できるだけ他のブログで取上げられた内容には触れずに、違った視点から個人的見解を述べることにする。

基本的に下記Blogsの内容に同意しているので、参考にしてほしい。

国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)
(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/02/post-c213.html

一億総ヤクザ(深町秋生)
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100215

「品格」は他人叩き大好き無能者の最後のよりどころ(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266252634

ルールと価値観(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-716.php

さて、個人的見解を述べることにしよう。

私は、今回の問題を、最近の当Blogの流行でもある「日本論ネタ」として語りたいと思う。
(ということで、相変わらず抽象論に終始します。)

まず、「なぜ国母選手は批判されるのか?」という疑問にお答えしたい。

それは、「和を乱す人物」と判断されたからである。
「品格」というのは方便で、実際は和を乱すやつが嫌いなのである。
なぜ和を乱すやつが嫌いなのか?
それは日本人が長らく「和を尊ぶことで生きてこれた」という厳然たる現実を経験的に理解しているからである。

(いつもの繰返しで申し訳ないが)
日本人は、古来より生き残るために和を尊んできた。
しかし、和を尊ぶということは、「個人」よりも「場」を重要視するということである。
「個人」と「個人」との境界線を曖昧にし、「場」に溶け込ませるのだ。
そこに「個人」は独立して存在するわけではなく、「場」との関係性の中でのみ存在できる。
それは、時として「個人」としての人間性を否定することにも繋がる。
西欧諸国にみられる「神の前で平等で自由な個人」という発想が日本にはない。
「個人」が存在しないのだ。
だから「個人」を前提とした仕組みや風習が日本にはなかった。
あるのは、「場」を存続させるためのものだけであった。

しかし、日本人が「和を尊ぶ」のは、それが最善と信じたからではない。
そうしなければ生き残れなかったという、限られた選択肢の中での苦渋の決断の積み重ねであった。
それが人間性を開花させるわけでも、生まれながらの幸福を意味するわけでもなかった。
だから、日本には「はかなさの美学」や「死の美学」、「滅びの美学」が存在する。
長い間、そういった環境に耐え忍ばなければならなかった日本人が生み出した知恵だ。
この意識は、「御恩と奉公」、「エコノミック・アニマル」、「村八分」、「一億層中流」、「出る杭は打たれる」などの日本的文化の底辺にある。
「場」の親密性を共有することが最大の喜びである必要があったから、それが素晴らしいと礼賛する伝統と、そうではないものを排斥する生活習慣が生まれたのである。

日本人が和を尊び、そこから逸脱するのを許さない理由は以上である。
その概念を共有することを求めるのは、品格原理主義者だからではない。
それが日本人であるという彼らなりの信念が埋め込まれているからだ。
彼らは、日本人に対してどこまでいっても「日本人的であれ」と主張しているのである。
バンクーバー・オリンピックに行っても「日本人であれ」、モンゴル人が相撲をやるにも「日本人であれ」、ビジネスやるにも「日本人であれ」だ。

オリンピックでのメダルや結果や、競技が選手に与える影響うんぬんよりも、まず「日本人であれ」だ。
税金やら礼儀やら品格なんてものは建前に過ぎない。


今後説明するのが面倒なので「聖徳太子の呪い」とでも言おうかな。
別に聖徳太子のせいじゃないけれど。。

では、次に「なぜ国母問題で意見が対立しているのか?」について説明しよう。
(当Blogを長らくご覧頂いている読者様には、結論が見えているだろうが・・)

国母選手が批判される理由は「日本人的ではなかったから」だということがわかったが、主にネット上(有名ブログ等)では、国母擁護論(というより国母批判派への批判)が多い。
これはおかしい。
国母選手は「日本人的ではない」から批判されているのに、同じ日本人が「そういう批判はおかしい。」と主張し意見対立が起きているのだ。

「そりゃ、あなたの「日本論」が日本人を一般化していることに無理があるってだけの話しだろ?現代では、あなたのいう「日本人的」の例外は腐るほどあるってだけさ。」などといって、この問題を単純化してはいけない。
違うのだ、そんな簡単な話ではない。

私が説明した「日本人的なるもの」は現代でも変わってはいない。
大きく変わったのは「個人」と「社会」なる概念が日本に輸入された点である。
つまり、「個人」と「社会」とが存在しなかった世界に、その2つがしれっと入り込んできたのだ。
西欧的仕組みが「個人」と「社会」を前提としているため、西欧化するということは、自然と「個人」と「社会」を受け入れるということに他ならない。

しかしだ。
ここからが当Blogの問題意識だ。
「個人」と「社会」が存在しないことを前提とした「日本人的なるもの」に、「個人」と「社会」が入り込んだのだ、衝突しないわけがない。
ボタンの掛け違い程度ならよいが、これは仕様の異なる歯車を組込んだようなものだ。
ギシギシと音をたてて、日本のあちらこちらで不協和音が上がっている。

よく考えて欲しい。
「場」を当り前だと思っている人と、「個人」を当り前だと思っている人とが話し合うのである。
社会観どころか、人生観からいってすれ違うこと間違いなしである。

国母問題でいえば、「個人」の自由を尊重する側からみれば、「個人の自由を侵害するようで申し訳ありませんが、制服を支給するので要所で着用いただいてよいでしょうか。」くらいの発想だってできるのだ。
「なに?服装を強要?しかも服装の乱れは許さんだと?!ここは北朝鮮か!?」と、かなり極端な例だが言われても仕方がない。

だらだらと話が長くなる前に、結論を出しておこう。
「では、我々はどう考えるべきなのか?」についてだ。

まず絶対的な答えはない。
これは理解していただく必要はある。

それを前提とした上だが、この場合「両論並立」しかない。
なぜなら、どちらが正しいのか答えはないからである。
例えば、「個人」を尊重するのが近代的な考えのように思えるが、しかし「個人」を尊重した結果の「孤独」に現代人は苦しめられているし、「個人」の利益追求による経済的損失も被る可能性もある。
「個人」を尊重することで100年うまくいったが101年目にとんでもない事態を招く必要だってある(ブラック・スワン)。
たいして利益を上げられないが、生き残れるのは「個人」を認めない方かもしれないのだ。

しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
私は「何が正しいかわからないから、何もしない。」というニヒリズムは採用しない。
「何が正しいかわからないから、何が正しいかよりも、何がより自分達にとって有用か。を考えていこう。」これが私の立ち位置だ。
だから、当Blogでいつも主張するように、日本は「個人」と「社会」についての議論を深める必要があると主張している。

答えになったであろうか。

「政治とカネ」に関する公認会計士の見識

2010-02-18 10:45:28 | 政治
ホリエモンのブログで知ったのだが、公認会計士の細野祐二氏が小沢一郎を巡る「政治とカネ」問題について鋭く突っ込んでいる。
私は会計超素人なのでコメントしない方がいいのかもしれないが、このレポートを信じると、今回の事件は単に「会計知識のない者による勘違い事件」にしか過ぎないと思わされる。
(少なくても元秘書3人の逮捕は異常)

もともと、東京地検特捜部というところは経済関連の知識が乏しく、経済犯罪に関しては空振りが多いと言われている。
「法律家は経済に関して疎い。」ということはよく言われている。
「法」と「経済」は、異なる専門分野であるし、利益を追求する資本主義はしばしば「日本国民の社会正義」に悖ると批判される。
しかし、そんな勘違いな空振りが堂々と許されているのは「国民が求める社会正義」の後押しがあるからだろう。

さて、細野氏によれば、鳩山首相の脱税は「真っ黒」だが、小沢の方は「限りなく白に近い。」ということだ。


一応、中立性のために、細野氏の背景を説明しておこう。
彼は検察と全く利害関係がないわけではない。
彼は粉飾決算に関わったとして特捜に逮捕され有罪判決を受けた。
現在、彼は最高裁に上告中であり、『公認会計士VS特捜検察』という書籍も出している。
『公認会計士VS特捜検察』で細野氏が主張する内容について、他の公認会計士による評価は極めて良く、会計としては全く違法ではないことに皆さん同意しているようです。
しかし、彼は検察をよく思っていないのは間違いない。

彼はまた日興コーディアルグループの粉飾決算を暴いた人であり、非常に実力のある会計士として知られている。
Amazonの著者紹介文にはこうある。


2007年2月、みすず監査法人(旧中央青山監査法人)の解散が発表された。日興コーディアルグループが、粉飾決算に関連して証券取引等監視委員会から史上最大の5億円の課徴金処分を勧告され、特別調査委員会が監査を担当した旧中央青山監査法人が事件に組織的に加担していたと報告書で明らかにしたことがきっかけとなった。

日興コーディアルグループの「粉飾」を最初に暴いたのは誰か。それは、本書の著者、細野祐二氏である。氏は前著『公認会計士vs特捜検察』で詳述したように、キャッツ事件に絡み、粉飾容疑の共犯として逮捕、拘留され、一、二審敗訴後、最高裁に上告中の身である。


では、レポートを見ていこう。

新月島経済レポート2010年3月号 「政治資金収支報告書」(細野祐二)
http://www.comp-c.co.jp/pdf/report20103.pdf

まず冒頭にこうある。(強調は私によるもの)


新聞だけを見ていると、たちの悪いゼネコンからの贈収賄事件かと見紛うばかりであるが、ここでよくよく冷静に起訴事実を見てみれば、容疑は政治資金規正法違反(虚偽記入)となっている。事件では、単に政治資金収支報告書に対する虚偽記載が問題とされているに過ぎないのである。

ところで、政治資金収支報告書とは政治団体の収支に関する会計報告なのであるから、本来であれば、政治団体の収支の事実に基づく会計処理こそがここで問題とされなくてはならない。ところが、これだけ膨大なマスコミ論評の中で、会計処理の是非を論じたものなどただの一つも見たことがない。会計を論じることなく、よってたかってその会計報告書の是非だけを騒ぎ立てているのである。見るに見かねて已む無く、小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反疑惑の会計的分析を行なう


つづけて、何が問題なのかについてこう述べる。


政治資金収支報告書の虚偽記載というのであるから、本来であれば、この資金移動の事実をどのように政治資金収支報告書に記載しなければならないかという会計上の正解がなくてはならないが、実はこれがない。信じがたいかもしれないが、検察官も正解を持っていない。なぜなら、現行の政治資金収支報告書では、単式簿記を前提とした部分的な会計報告書の作成が義務付けられているに過ぎないからである。

部分単式簿記においては、その記載範囲は自立的に決定できない。完全複式簿記であればここでの資金移動に対する会計処理は単一となるが、部分単式簿記では複数の会計処理が可能なのである。現行の政治資金規正法は部分単式簿記による複数会計処理の並存を認め、報告書における作成者の裁量余地を大きく残している。基準上裁量権の認められた会計処理に対して虚偽記載を主張するのは、一方の見解を強要することにより裁量権を否定するに等しく、これを無理して立件するのを国策捜査という


細かいところは、レポートを読んでいただくとして、細野氏は個人的見解としてこう述べる。


この報告書を見ると、小沢氏からの借入金4億円は平成16年の資金収支報告書の収入の部に見事に計上され、また、同年の特定資産・借入明細書には「借入金-小沢一郎」として記載されている。一方、世田谷区の宅地は、平成17年の特定資産・借入明細書に342百万円として記載されるとともに、同年の資金収支報告書中の事務所費415百万円の一部を構成している。

ここで不思議なことがある。例の小沢氏からの4億円の仮受金は陸山会の組んだ同額の定期預金で決済されたことになるにもかかわらず、そのあるはずのない定期預金が陸山会の特定資産・借入金明細書に計上されてしまっているのである。陸山会の平成16年の特定資産・借入金明細には、この年度の定期預金残高として4億7150万円が計上されている。

これが複式簿記を知らない(中途半端に)まじめな人の悲しいところで、石川議員は例の小沢氏からの仮受金をせっかく定期預金で返済して簿外化したにもかかわらず、年が代わって平成16年の政治資金収支報告書を作成する段になり、定期預金が陸山会のままで名義変更されていないことにハタと気がつき、これはマズイとばかりに、政治資金収支報告書に定期預金を計上してしまったのである

小沢氏の個人資産を政治団体の資産として計上するというのであるから、当然のことながら政治団体の資産は4億円分だけ過大計上されて貸借が合わない。そこで、たまたま問題の世田谷の宅地の登記が12月末に間に合わなかったことを思い出し、ならばこちらも4億円近いので、定期預金をこの年度に計上する代わりに不動産を翌年回しにしておけばちょうど辻褄が合うと考えたのではないか?見よ。石川議員の経理処理は翌平成17年以降に見事に辻褄が合い、平成17年に4億円の事務所費が計上されるや、平成17年と平成18年にかけて4億円の定期預金は消滅している


会計処理をどうすべきだったのかについてこう述べる。


ここで石川議員に会計上の正解をお教えしておくと、小沢氏からの仮受金4億円が陸山会の定期預金により決済されているのであれば、定期預金の名義にかかわらず、この定期預金は実質的に小沢氏のものなのであり、実質的他人所有の資産は政治資金収支報告書に記載する必要はない。4億円の仮受金が簿外となった以上、この定期預金も簿外にしておけばよかったのである。そうしておけば、定期預金が満期になる都度、銀行が自動的に借入金と相殺してくれるので、石川議員もややこしい事務所費との遣り繰りなどしなくて済んだ。何よりも、こんなどうでもいいことを問い詰められ、その答えに窮するあまりまさか逮捕されることもなかった


と、いうことで、今回の事件についてはこう述べる。


さて、石川議員の政治資金収支報告書作成をめぐる舞台裏が理解できたが、このことから我々は、二つの決定的な事実を知ることができる。石川議員は会計の基礎理解が決定的に欠けており、従って、石川議員に政治資金収支報告書虚偽記載の犯意を認定する事はできない。刑法上、罪を犯す意思がない行為はこれを罰することができない。(刑法第38条第1項)


検察官の主張をこうたしなめる。


平成16年の資金収支報告書には、小沢氏からの4億円が借入金としてしっかり計上されているのだから、検察官は、この4億円とは別の、例の4億円の仮受金を問題としている。
仮受金ではなく借入金だと言うのである。そんなことをすれば、この年の小沢氏からの借入金は8億円になってしまう。あの時は、同じ4億円が陸山会の周りをグルグル回っていたに過ぎないのであり、金が回転したからといって4億円の借入金が8億円に化けることなどあり得ない。既に論証したごとく、10月上旬の小沢氏からの4億円の現金受領は会計上の仮受金であり、仮受金は、現行の政治資金収支報告書上簿外とせざるをえない。これが法律上認められた部分単式簿記の限界なのであり、なく子も黙る東京地検特捜部といえども、ここに完全複式簿記の正義を押し付ける事はできない

そこで検察官は、“4億円の現金があって不動産の購入資金が賄えるのに、なぜ利息を払ってまでわざわざ4億円の銀行借入をするのか”と疑問を呈する。

「それは、この現金が人には言えないいかがわしいものだからに違いなく、きっとそこにはゼネコンからの裏献金が含まれているに違いない。宅地の登記を遅らせたのも、4億円の裏金が表に出せないからで、平成16年の4億円の入金が表に出せない以上、同じ年の3億5千万円の出金も表に出せるはずがない。」

これを邪推に基づく妄想という。検察庁特捜部の妄想は、5千万円の裏献金という供述を水谷建設から引き出したが、裏づけとなる客観証拠がついてこず、これでは公判維持可能な証拠にはならない。仮釈放に足摺りする服役中の水谷建設幹部をシバキ上げてとった苦心の供述なのであろうが、特捜検察も、莫大な国費を使って無意味なことはやめたほうがいい。

もとより、不動産の購入資金があったからといって、それを使ってしまえば運転資金が枯渇するのであれば、どんな人でも借入れをしたいと思う。ここで支払われる利息など運資金枯渇の恐怖に比べればものの数には入らない。運転資金確保のために利息を払って借入をするというのは、きわめてまともな事業の常識なのであり、小沢氏は事業家としの常識をもって政治活動を行なっていたに過ぎない。そんな常識的借入に対して、「利息を損してまで借入をするのはおかしい」などと言いがかりをつけているのは、手厚い身分保障に生きる検察官には運転資金枯渇の恐怖が理解できないからで、ただそれだけのことであろう

この事件の資金移動を会計的に分析する限り、石川議員以下の3名の被告人は証拠構造上圧倒的に有利であり、それどころか、政治資金規正法が部分単式簿記を前提としている以上、ここには犯罪事実そのものが存在しない
検察庁特捜部は、
「この手の事件では捜査はどうしても供述中心にならざるを得ない。」
などと意味不明の訳の分からないことを言っては、現職国会議員を国会会期直前に逮捕した。外部との接触を一切遮断した密室に21日間も監禁して朝から晩まで攻め立てれば、事実にかかわらず人は自白調書に署名する。足利事件で明らかとなったように、日本の捜査機関による取調べ技術をもってすれば、人を殺してなくとも、
「殺したのは実は私です」
などと、立派な自白調書が出来上がるのである。

当然のことのように石川議員以下3名は政治資金収支報告書の虚偽記載を認め、本件は自白事件として処理されることになった。石川議員たちが犯罪事実の存在しない自白調書に署名したのは、そうしなければ何時までたっても保釈が認められないからで、従って、公判が始まれば自白を翻すに決まっている


ただし、彼はこう締めくくる。


ただし、残念ながら、今後の石川議員の裁判において無罪判決が出る可能性は悲しいほど少ないと考えなくてはならない。部分単式簿記による会計数値という客観証拠と矛盾していても、現行司法では検察官面前調書による自白には、なぜかほぼ絶対的な信用力を認められることになっているからである。石川議員はあの密室で取られた自白調書の嘘を自ら公判で立証するという、まさに前人未到とも言うべき難行に挑まなくてはならない。


三権分立の一つ、「司法」。
この「司法」の判断が狂っているのでは、我々は何を信用すればいいのか。

そう、答えはわかっている。
初めから国家権力を信用してはならない。
(アメリカ的発想と批判するなら、理由を述べてください。)

元検察庁検事の高井康行氏があるTV番組でこう主張していた。
(検察が小沢を狙い撃ちしたことについて)
検察が強いものを狙う当り前だ(だったら誰が権力を制止できる?)。権力は必ず腐敗するからだ。

その通り。
検察と言う国家権力も腐敗するだろう。
検察(行政)を制止できる権力が必要だ。
立法府は何をやっているのだ。

では、最後にまとめ

今回の事件の本丸は小沢の贈収賄だったのだろうが、特捜は証拠を上げることはできずに、こんな無実の人を逮捕するに至ってしまった。
疑わしいものを捜査する。
これは間違いではないし、小沢を狙い撃ちしようが、それは構わない。
「一罰百戒」と批判されようが、それが社会正義を乱すのであれば、社会的組織が社会として制裁を加えるのは当り前である。
人間の体がウィルスを除去するのと同じ。
それは人間の体観点からみれば正しいことだろう。(しかし、人間ではない観点から見たときに正しいかはわからない。)
しかし、無実の人を逮捕してしまうこと、マスコミの偏重報道、これはよくなかった。

我々は今一度、「社会」や「社会正義」について議論する必要がある。

[追記]
政治家のみなさんに向けた会計の初歩の初歩(磯崎哲也)
http://www.tez.com/blog/archives/001580.html


そもそも政治家というのは普通の会計に触れた事がある人がほとんどいないんでしょうね。
3日ほど前のジャーナリストの神保氏のツイッター上での発言を見て「えっ」と思ったのですが、政治団体というのは複式簿記じゃないようなんですね。

私も、先日の小沢氏の件でも、なぜあのような記載漏れが起こるのか全く理解不能で、「弥生」とか「勘定奉行」とかで普通に帳簿を付けていれば、あんなことは起こるわけもないと思っていたのですが、複式簿記でないというなら非常に腑に落ちる。

政治団体も、お金の流れや資産の管理が一体で行える複式簿記にすべきです。

ついでに言えば、政府も貸借対照表をちゃんと複式簿記的に作成すべきです。「ご参考:国は「ストック」も考えた総合的なリストラ策を策定するべきだ」
ストックとフローを統合的に考える思考体系(複式簿記)を持たないから、財政支出の話と国債発行の限界の話がごっちゃになってるんではないかと思います。