思いつきエントリです。見直してもいないので後で修正します。
検察は「暴走」したのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51374818.html
64. advanced_future 2010年02月15日 12:28
論点をずらすわけではないですが、発言させてください。
日本の議論で面白いなと思うのは、入力部分のお話だけに終始して、出力部分についぞ議論が至らない点ではないかと思うのです。(日本的組織の考えは基本的に出口戦略がないような気が。入力こそ日本の美学でしょうか。)
政治資金規正法を武器にするのも捜査機関の限界をよく表していて、本来、贈収賄を根本的に防ぐためには出力部分(政策決定)を規制すべきなんですが、そこは捜査機関の仕事ではないので片手落ちしている状態です。贈収賄のインセンティブを働かせない仕組みを導入するということですね。
政治家に限らず一部のパワープレーヤが政策に裁量を持つ限り、贈収賄のリスクをはらむことになる。もちろん、そのリスクは柔軟性とのトレードオフであり、ルールを設ければ柔軟性が失われます。日本人は頑なルールより柔軟性を重視しているのではないですか。結局、裁量的な介入(支援)を国民自身が望んでいるからであって、その意識を変えずして贈収賄が無くせるわけがありません。
私は小沢に期待しています。彼の政策にではなく、国民の合意形成を変えるという意味での「日本の民主化」において。
コメントで書いた通り、日本では「入力」のことばかり議論される。
「出力」についての話は少しだけだ。
どう入力を揃えるかが、どう出力されるかよりも重要なのである。
例えば、どういう振る舞いをするかということは、どういう結果を導くかよりも優先される。
結果よりも礼儀を重んじる。
最近流行りの品格問題も同じ。
形式的な体裁を整えることは、実際に起きる現実よりも重い。
「政治とカネ」の問題も、実に入力偏重のお話である。
政治資金規正法が形式犯か実質犯かという話に答えを出してどうするつもりなのか。
幾人かの政治家は、「政治活動にはカネがかかるから、贈収賄を減らすためにには税金からの政治資金を増やしてもらうしかない。」というし、また他の政治家は「企業献金を禁止すべき。」という。
政治家が追い求めるのは「選挙に勝つ」ことであるから、結局は「票」である。
票に繋がるものがカネならカネを欲しがるし、名声や地位なら名声や地位を欲しがるだろう。
投票者から票を買うために、カネが必要ならカネを追い求めるし、他のものなら他のものを追い求める。
投票者は政治家に何を求めるのか。
それは政治家の裁量を生かした政策への介入に他ならない。
(政治家は税金をどう使うか、許認権ということに裁量を持っている。)
逆にいえば、政治家には投票者から票を買うために、政策へ介入することにインセンティブが働く。
だから、政治家が政策に介入できる余地を減らすことが、贈収賄を減らすポイントである。
政策決定のルールを第3者が納得できる形で明確にし、決定過程と結果を後からトレースできるように公開し、そして後日政策効果をフィードバックする仕組みを構築することである。
結果として政治家の裁量を減らすことでもある。
ただ、政治家の裁量を小さくして、困るのは誰かを考えると、それは国民かもしれない。
使い古された議論だが、やはり日本を支配している「空気」の問題がある。
日本人は「本音と建前」という言葉があるように、「本音」と「建前」とにギャップがあることを許容できる。
逆から見ると、事実関係が言語をもって明らかにされなくても、その場の雰囲気で物事を理解しようとしてしまう。
ルールの明文化を意図的に避けて、全体設計を先送りして、問題に迅速に取り掛かることを優先する。
物事が多くの領域を跨がない、ある特定の領域におさまるものであれば、取り組む者の処理能力が高い限り、効率性が高く、スピードをもって対応できる。
全体設計のための調査や調整といってコストを省くことができるからだ。
(ルールは上流設計がなくして作れない、またルール化しにくいものもあり、全体設計を先送りするということは、ルールを設けるコストを負担しないということ。)
この考え方は現代においてこそ批判されるが、過去においては非常に有用であった。
(今でも十分に有用な領域は多々ある。職人の世界がまさにそれ。)
この有用性は、「本音と建前」の存在する日本社会において顕在化する。
参加者の思惑が異なる場合、いちいち本音を探って合意形成を行うには膨大な調整コストを要する。
全体設計を行おうにも、方々に気を使っていたら時間がかかって仕方がないのである。
このような環境では、合意形成を先送りするのが一番楽である。
そのようなことに時間を割くのは無駄なので、とにかく取り掛かる。
しかし、ただ合意形成を先送りするでは、反感を買うのは必至であり、その道程に障害を生み出してしまう可能性がある。
で、どうするかだが、結論を玉虫色にすることである。
「標準化」という考え方が日本的文化に馴染まないのも、結論が明確になってしまうと困るからである。
(「標準化」は、これまで設計なしに行えたことに対して「設計を強要する」からである。)
これは結局、既得権益者との調整をスムーズにするという意味での知恵である。
無駄な争いを避け、知恵を組織内に内面化するのに非常に長けている仕組みともいえる。
連続的な発展には強い面を持つが、非連続な変化には弱い。
だから日本はキャッチアップする場面では驚異的な強さを見せるが、世界をリードする立場にはなれない。
キャッチアップするのに必要な能力と、リーディングするのに必要な能力が異なるからで、日本は前者に特化しているからである。
これはトレードオフである。
世界をリードする国になりたいのなら、キャッチアップする強さを諦めるべきである。
両方を目指すのは難しい。
だからアメリカという国は、勝てない勝負では土俵を変える(創る)。
自分達の有利な土俵を作り出して勝負するため、ゲームメーカーになろうとする。
彼らはキャッチアップする強さに欠けるが、新しい土俵を作るのに長けている。
長らく、入力を揃えることが、良い出力結果を導くために最善だと考えられてきたが、出力を規定することで入力を制約するという発想も必要だろう。
先述したとおり、トレードオフがあるから、うまい落としどころ(ハイブリッド)を見つけられるかどうかなのだが、続きはまた今度。
-------------メモ-----------
自動車産業と供に日本の世界最強と呼ばれた輸出産業の一角を占めていた電機産業が、デジタル革命とともに訪れた商品のコモディティ化の波に飲み込まれようとしている。
一般に「コモディティ化」というと「競争商品間の差異化特性を見出せない状態になる」という意味で使用されるが、つまるところ「入力がそのまま出力には結びつかないこと」でもある。
簡単に言えば、「どれだけ金と技術と人を投入してもたいした違いが出せない領域になる。」ことだ。
このコモディティ化の中で悩まされる日本の姿を見ていると、「入力と出力」に関する日本の特性をズバリ表しているように見えて興味深い。
※日本を擬人化していることからわかるように、この話は抽象的なもので、なんら有用ではないかもしれない。
並外れた属人的能力に依拠した技術、尋常ならざる反復の結果得られる以心伝心のチームワーク、総当り的試行実験で垣間見る粘り強さ。
日本人が胸を打つ感動ストーリーには、ある意味で「結果を超越した非合理的な人間」の姿が登場する。
彼らにとって、重要なのは入力であって、出力ではない。
しかし、彼らが入力に信念や意味深さを発見するのは、そのことが彼らが生きる上で重要であったことの裏返しでもある。
(ここは後述)
日本が得意とするのは「入力を揃えること」なのである。
だから技術でも商品でも興隆期には抜群の力を発揮するが、「いくら入力をいじっても出力に差が出せない状況」が苦手である。
端的に表現すると「接続的イノベーションは得意だが、破壊的イノベーションが苦手」ということになる。
検察は「暴走」したのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51374818.html
64. advanced_future 2010年02月15日 12:28
論点をずらすわけではないですが、発言させてください。
日本の議論で面白いなと思うのは、入力部分のお話だけに終始して、出力部分についぞ議論が至らない点ではないかと思うのです。(日本的組織の考えは基本的に出口戦略がないような気が。入力こそ日本の美学でしょうか。)
政治資金規正法を武器にするのも捜査機関の限界をよく表していて、本来、贈収賄を根本的に防ぐためには出力部分(政策決定)を規制すべきなんですが、そこは捜査機関の仕事ではないので片手落ちしている状態です。贈収賄のインセンティブを働かせない仕組みを導入するということですね。
政治家に限らず一部のパワープレーヤが政策に裁量を持つ限り、贈収賄のリスクをはらむことになる。もちろん、そのリスクは柔軟性とのトレードオフであり、ルールを設ければ柔軟性が失われます。日本人は頑なルールより柔軟性を重視しているのではないですか。結局、裁量的な介入(支援)を国民自身が望んでいるからであって、その意識を変えずして贈収賄が無くせるわけがありません。
私は小沢に期待しています。彼の政策にではなく、国民の合意形成を変えるという意味での「日本の民主化」において。
コメントで書いた通り、日本では「入力」のことばかり議論される。
「出力」についての話は少しだけだ。
どう入力を揃えるかが、どう出力されるかよりも重要なのである。
例えば、どういう振る舞いをするかということは、どういう結果を導くかよりも優先される。
結果よりも礼儀を重んじる。
最近流行りの品格問題も同じ。
形式的な体裁を整えることは、実際に起きる現実よりも重い。
「政治とカネ」の問題も、実に入力偏重のお話である。
政治資金規正法が形式犯か実質犯かという話に答えを出してどうするつもりなのか。
幾人かの政治家は、「政治活動にはカネがかかるから、贈収賄を減らすためにには税金からの政治資金を増やしてもらうしかない。」というし、また他の政治家は「企業献金を禁止すべき。」という。
政治家が追い求めるのは「選挙に勝つ」ことであるから、結局は「票」である。
票に繋がるものがカネならカネを欲しがるし、名声や地位なら名声や地位を欲しがるだろう。
投票者から票を買うために、カネが必要ならカネを追い求めるし、他のものなら他のものを追い求める。
投票者は政治家に何を求めるのか。
それは政治家の裁量を生かした政策への介入に他ならない。
(政治家は税金をどう使うか、許認権ということに裁量を持っている。)
逆にいえば、政治家には投票者から票を買うために、政策へ介入することにインセンティブが働く。
だから、政治家が政策に介入できる余地を減らすことが、贈収賄を減らすポイントである。
政策決定のルールを第3者が納得できる形で明確にし、決定過程と結果を後からトレースできるように公開し、そして後日政策効果をフィードバックする仕組みを構築することである。
結果として政治家の裁量を減らすことでもある。
ただ、政治家の裁量を小さくして、困るのは誰かを考えると、それは国民かもしれない。
使い古された議論だが、やはり日本を支配している「空気」の問題がある。
日本人は「本音と建前」という言葉があるように、「本音」と「建前」とにギャップがあることを許容できる。
逆から見ると、事実関係が言語をもって明らかにされなくても、その場の雰囲気で物事を理解しようとしてしまう。
ルールの明文化を意図的に避けて、全体設計を先送りして、問題に迅速に取り掛かることを優先する。
物事が多くの領域を跨がない、ある特定の領域におさまるものであれば、取り組む者の処理能力が高い限り、効率性が高く、スピードをもって対応できる。
全体設計のための調査や調整といってコストを省くことができるからだ。
(ルールは上流設計がなくして作れない、またルール化しにくいものもあり、全体設計を先送りするということは、ルールを設けるコストを負担しないということ。)
この考え方は現代においてこそ批判されるが、過去においては非常に有用であった。
(今でも十分に有用な領域は多々ある。職人の世界がまさにそれ。)
この有用性は、「本音と建前」の存在する日本社会において顕在化する。
参加者の思惑が異なる場合、いちいち本音を探って合意形成を行うには膨大な調整コストを要する。
全体設計を行おうにも、方々に気を使っていたら時間がかかって仕方がないのである。
このような環境では、合意形成を先送りするのが一番楽である。
そのようなことに時間を割くのは無駄なので、とにかく取り掛かる。
しかし、ただ合意形成を先送りするでは、反感を買うのは必至であり、その道程に障害を生み出してしまう可能性がある。
で、どうするかだが、結論を玉虫色にすることである。
「標準化」という考え方が日本的文化に馴染まないのも、結論が明確になってしまうと困るからである。
(「標準化」は、これまで設計なしに行えたことに対して「設計を強要する」からである。)
これは結局、既得権益者との調整をスムーズにするという意味での知恵である。
無駄な争いを避け、知恵を組織内に内面化するのに非常に長けている仕組みともいえる。
連続的な発展には強い面を持つが、非連続な変化には弱い。
だから日本はキャッチアップする場面では驚異的な強さを見せるが、世界をリードする立場にはなれない。
キャッチアップするのに必要な能力と、リーディングするのに必要な能力が異なるからで、日本は前者に特化しているからである。
これはトレードオフである。
世界をリードする国になりたいのなら、キャッチアップする強さを諦めるべきである。
両方を目指すのは難しい。
だからアメリカという国は、勝てない勝負では土俵を変える(創る)。
自分達の有利な土俵を作り出して勝負するため、ゲームメーカーになろうとする。
彼らはキャッチアップする強さに欠けるが、新しい土俵を作るのに長けている。
長らく、入力を揃えることが、良い出力結果を導くために最善だと考えられてきたが、出力を規定することで入力を制約するという発想も必要だろう。
先述したとおり、トレードオフがあるから、うまい落としどころ(ハイブリッド)を見つけられるかどうかなのだが、続きはまた今度。
-------------メモ-----------
自動車産業と供に日本の世界最強と呼ばれた輸出産業の一角を占めていた電機産業が、デジタル革命とともに訪れた商品のコモディティ化の波に飲み込まれようとしている。
一般に「コモディティ化」というと「競争商品間の差異化特性を見出せない状態になる」という意味で使用されるが、つまるところ「入力がそのまま出力には結びつかないこと」でもある。
簡単に言えば、「どれだけ金と技術と人を投入してもたいした違いが出せない領域になる。」ことだ。
このコモディティ化の中で悩まされる日本の姿を見ていると、「入力と出力」に関する日本の特性をズバリ表しているように見えて興味深い。
※日本を擬人化していることからわかるように、この話は抽象的なもので、なんら有用ではないかもしれない。
並外れた属人的能力に依拠した技術、尋常ならざる反復の結果得られる以心伝心のチームワーク、総当り的試行実験で垣間見る粘り強さ。
日本人が胸を打つ感動ストーリーには、ある意味で「結果を超越した非合理的な人間」の姿が登場する。
彼らにとって、重要なのは入力であって、出力ではない。
しかし、彼らが入力に信念や意味深さを発見するのは、そのことが彼らが生きる上で重要であったことの裏返しでもある。
(ここは後述)
日本が得意とするのは「入力を揃えること」なのである。
だから技術でも商品でも興隆期には抜群の力を発揮するが、「いくら入力をいじっても出力に差が出せない状況」が苦手である。
端的に表現すると「接続的イノベーションは得意だが、破壊的イノベーションが苦手」ということになる。