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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

スポーツと国家

2010-02-24 17:11:49 | 社会
題名のわりにテキトーです。

浅田真央はよかったが、キムヨナがもっとよかった。
オンタイムで見ていたが、素人目にもはキムヨナの方が完成度が高い気がした。
解説者によれば出来栄えの差が出たということだそうだ。(本当のところは知らないが)
両者ともこれまでない選手なのだと思うが、Jr.の後に浅田の方が上手だったことを考えると、その後逆転されたことになる。
コーチやスタッフの差が指摘されている。

よく、諸外国が国策として選手強化に乗り出しているのに、日本は取り組みが足りないと言われるが、これは結論を急ぎすぎなのではないか。
金メダルを取ることにこだわって国家の介入を無批判に求めるのは危険ではないだろうか。
スポーツ予算は事業仕分けで削減対象になりやすそうなものだが、政治家は陳情されれば受けざるを得ない雰囲気がある。
スポーツで国威発揚を促すのはなんとも全体主義的な気がする。
国民のエンターテイメントとしてスポーツ予算つけるのも・・という気もする。

ただ、職の多様性があった方が日本社会の多様性も出ていいと思う。
個性を開花する場面も増えて、そこから派生的に生まれる経済も文化も元気もあり、日本を活性化させるためにはいいだろう。
そのためのコストとベネフィットのバランスがどうなのか、というのはさっぱりわからない。
どの程度の多様性があればいいのかもわからないし、どの程度のコストが適切なのかもわからない。

とにかくフリーが楽しみだ。

話が急激に変わるが、浅田真央選手の姉の浅田舞さんってあんなにキレイだったっけ?
(フジテレビ見てた人じゃないとわからないだろうけど)

[追記]
「スポーツ後進国」の元ネタは↓のようです。
私も流行に乗ろうと噂話に飛びつくのはマスコミ体質と変わらぬようです(笑)

スポーツ後進国 日本(清水宏保)
http://www.asahi.com/olympics/columns/from_vancouver/TKY201002230298.html

宗教的大変革の時代

2010-02-24 12:14:54 | 社会
これは素晴らしい内容だ。
当Blogで繰り返している日本に輸入された「個人」と「社会」についての話がもっと賢くまとめられている。
是非リンクを辿って原文をお読み頂きたい。

システム間移行と宗教戦争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51381858.html
(強調は私によるもの)


いま日本の直面している変化は、人々が自覚している以上に大きなものである。それは伝統的な共同体から日本人が継承した長期的関係によるガバナンスから、近代西欧に特有の契約社会への移行だ。

...11世紀にカトリック教会によって西欧文化圏が統合されて普遍的な教会法の支配が成立したことが、近代社会の決定的な要因だった...

...宗教改革によって自律的な個人の契約(covenant)による組織としての株式会社ができたことが、西欧の成功の原因だったと結論している。他方、ファーガソンもいうように、株式によってリスクを分散する契約としての株式会社も重要なイノベーションだった。

近世の欧州で続いた宗教戦争の原因は、経済システムが契約ベースに変わったのに対して、カトリック圏の伝統的文化が適応できず、それが宗派間の争いとして表面化したことにあった。著者が強調するのは、経済的な土台が法的な上部構造を規定するというマルクス以来の図式を逆転し、宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決めるということだ。

ゲーム理論的に見ると、商圏が拡大するにつれてグライフの描いたマグレブ商人(長期的関係)からジェノヴァ商人(契約)への覇権の移行が起こったわけだが、「下部構造」としての宗教が変わらないまま「上部構造」としての経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す

契約ベースの社会は、生まれたときから快適なものではなかった。それは人々を不断の競争にさらし、貧富の格差を広げ、伝統的な社会を破壊する。それを神の秩序に反するものとして攻撃したカトリック教会のイデオロギーは、今日「市場原理主義」を攻撃して貧しい人々に施しを与えようとする民主党に似ている

しかし経済圏がグローバルに広がるときは、両者の効率の圧倒的な差によって、このシステム間移行は避けられない。それはかつては100年以上にわたる宗教戦争を引き起こしたぐらい大きな変化であり、平和裡に進むとは限らない。おそらく日本でも、もっとも大きな変化はこれから来るだろう。


勝手に当Blog流に翻訳する。

法的な規範の基礎は、「それが正しいのか、悪いのか」という道徳や倫理といった宗教的な文化によって決まる。
(何を取り締まるべきか、何を禁止すべきか、何を推奨すべきかといったことは宗教的な要素によって決まる。)

経済は、その基本的にその法体系の枠組みの中で行われるため、「宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決める」といっていい。

しかし、知性というのは飽くことを許さないし、知的向上を目指さずにはいられない。
「こうすればよりうまくいく。」という改善努力が積み重なると、ある時、既存の枠組みをはみ出るイノベーションが生まれる。
上部構造である経済が、その下部構造である法体系をはみ出る現象が起きるが、しかし実利として経済が勝れば、経済は下部構造である法体系にのみ規定されない道を歩む。

こうなると「下部構造の宗教的文化が変わらないまま、上部構造の経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す」という状況が生まれる。
これまで「正しい」とされてきた枠組みを守ろうとする人々と、枠組みをはみ出して実利を得ようとする人々の間で思想闘争が起きるのである。
それは、既存の「正しさ」と新しい「正しさ」との闘いなのであるから、最終的に下部構造の法体系の基となっている宗教的文化に対する攻防なのである。
これは宗教的戦争の基礎となる。

当Blogで繰返し述べてきたように、明治維新後、特に戦後に日本に入ってきた「個人」と「社会」をベースとした経済は、今まさに日本の宗教的文化に対して闘いを挑んでいる状態ともいえる。
「契約(個人)ベースの社会は快適なものではない。人々を不断の競争にさらし、貧富の差を広げ、伝統的なコミュニティを破壊する」

この闘いの行く末は自明ではないが「しかし、契約(個人)ベースの効率性が圧倒的に高いために、この流れは避けられない。」のだけは確かである。
鎖国でもしない限り、否応なしに、変革を迫られるのだけは間違いない。

当Blog流にいえば、混血による融合は現在進行形の構造変化なのである。

「これは、過去に西欧においては宗教戦争を引き起こしたぐらいの大きな変化であり、日本でも同様の変化が起きるであろう」ということだ。