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ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。
この一点に関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の帰敬偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。
「不生亦不滅 不断亦不常
不一亦不異 不来亦不出
(不生にして亦た不滅 不常にして亦た不断
不一にして亦た不異 不来にして亦た不出なる)
能くこの因縁を説き 善く諸々の戯論を滅す
我稽主して礼す 仏を諸説中第一なりと」
不生不滅というのは、なにも生ぜずなにも滅しないということでしょう。すべて幻想・イルージョンということです。
幻想というとすべてイルージョンだからなにをやっても虚しいと感違いしてしまいますが、わたしは真実なるものとつながった・真実なるものとお互い流れ合ったイルージョンにはきらきらした宝石のようなものが存在するのではないかと思うようになりました。その宝石のようなものとは私に胸を掻きむしられるような切ない思いを生じさせるものです。その宝石がそれがきえた後にもこころの中できらきら輝いて私に生きるちからをあたえてくれると。
私は、花びらが束ねられている一点をその真実とつながったイルージョンにしていきたいと思います。
今年は7月に愛犬が亡くなり、三が月後に初孫が生まれました。愛犬は滅して終わりではないと思います。愛犬からもらったきらきらした心でもって孫にそのきもちを注いでいけば、愛犬は孫の中で生きているのではないでしょうか。
これからもきらきらした宝石を見過ごさないことにしていきたいと思います。