一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「渾然一体」

2008年02月29日 | Weblog
 頼住光子著「道元 自己・時間・世界はどのように成立するか」(注1)を読んでいたら、目の前のことを個々としてとらえるのではなく、個々の区別のない全体としてとらえるのが、真理の体得であると書かれていました。
 また「正法眼蔵 坐禅箴」のなかにも、「其の知偶無ク奇ナリ」(注2)という文があって、真理体得者の認識は〈主観と客観とか精神とか肉体とかというような〉二者への分裂はなく、つねに渾然一体であると書かれています。

 私は猫だって、夫や私や娘を区別してみているではないか。個々の区別なく全体としてとらえるとはどういうことか、と。猫は生活の便宜上夫や私や娘を区別してみていますが、つねに目の前の世界を全体でとらえています。猫の全体のとらえ方は本当に絶妙です。どんなに楽しく猫じゃらしで遊んでいても、少しでも変な音がすれば、パッと基本姿勢に体勢を直します。猫じゃらしだけを見ているのではなく全体を体で感じています。
 それに比べて人間は目の前の世界を全体でとらえているのか疑問に思うことばかりです。人間にとっての猫じゃらしであるおもちゃで遊んでいて変な音が聞こえても、おもちゃにとらわれ過ぎて、変な音に気がつかないのが人間ではないでしょうか。人に何か言われれば、そのことにとらわれて全体をみていません。
 「正法眼蔵」で何よりも大事にするのは現に身を置いている場所での全体を体で感じていることです。個々に焦点をあてるのではなく、渾然一体の素晴らしさに焦点をあてていたいとおもいます。

注1:頼住光子「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」NHK出版82頁   参照
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第五巻」金沢文庫 34頁


「自己」

2008年02月21日 | Weblog
「正法眼蔵」では、「仏道をならふというは、自己をならふなり」とか、「坐禅は自己の創造である」とか、「自己」がキーポイントの言葉としてでてきます。最近頼住光子著「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」を読んでいたら何だかこの「自己」の私の捉え方が揺るいでしまいました。最初からあいまいな捉え方だったんでしょうが。

 その著書のなかで次ぎのように書かれています。

 「真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす『空そのもの』への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて、動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての『有時』こそが、日常世界における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回帰する一瞬『而今』なのである。」(注1)

また次のようにも書かれています。

 「主体は意味づけるという行為を通じてのみ、すなわち対象としての存在と、相互相依的関係を結ぶことによってのみ、主体となる。見られる対象の成立が、同時に見る『自己』の成立なのである。」(注2)

 ここで言っている自己同一的に完結した自己のレヴェルの「自己」は、‘唯物モード’での肉体を持つ自分と‘観念モード’の自分を「自己」ととらえていると思います。どこか傷つければ痛いと感じるし、眠いと感じるのもこの「自己」です。また他人とはっきり区別して自分をとらえている「自己」です。自分と他人が区別ないというのはおかしな話しです。でも「正法眼蔵」的な「自己」は‘行いモード’です。‘行い’のなかでは、自分も他人もないのです。熱い火に触れば自分も他人の区別なくとっさに手を引っ込めるように、頭をとおさないで行動するモードです。行動になりきって体が勝手に動いている状態です。でも『空そのもの』への自覚的還帰といわれてるように、自分も他人もない行動というのは黙っていてもできません。自覚的に自らの心身を調えなければ行動のなかに自分や他人が入ってしまいます。

 また‘行いモード’ということは勝手に浮かんだ考えで行動はしません。それでは‘観念モード’です。‘行いモード’というのは、現に身を置いている場所で見ていて、聞いていて、肌で感じていて、味わっていて、そこから自然にこうしようと何かを行っていくことです。見られる対象の成立が、同時に見る『自己』の成立なのです。

「正法眼蔵」でいっている「自己」とは、全存在が一つの全体として結び合い、連関をなしているなかでの、すばらしい一つの全体のなかの一つの存在として他との関係によって‘行い’が決まっていく‘行いモード’の「自己」ではないでしょうか。

注1:頼住光子「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」NHK出版99頁
注2:同上 95頁


「獲物」や「敵」

2008年02月15日 | Weblog
 私が最近ずっと考えていることがあります。猫にとっての獲物や敵というのは、人間にとっては何なんだろうということです。猫は行動するときに目の前のことをよく見ています。そうしないと敵に襲われてしまうし、獲物も逃してしまうからでしょう。人間はあまりにも生活が細分化されてしまって、何が敵で何が獲物かもわからなくなって、目の前のことをよく見なくても生きていけるようになってしまっています。
 でも猫のように、私は、自分の好嫌や是非よりも、目の前のことをよく見て獲物を逃さないように敵に襲われないように行動したいのです。
 H.D.ソロー著「森の生活」(注)によれば、人間の必需品は「食物」「ねぐら」「衣服」「燃料」だと書いてあります。これらを調達することが人間にとっては、獲物を捕まえ敵から逃れることかもしれません。これらは目の前のことをよく見なくても調達できるようになったかもしれないけど、人間にも猫のような目の前のことをよく見て行動し、そうしないと不安を感じる本能が残っているような気がします。
 だから私は良寛さんのように、外界の変化に応じてこれらの必需品を調達しつつ、あまり無駄な動きはしないで目の前の現実の言葉にできないすばらしい世界を味わっていたいというのが今の私の理想です。

注:H.D.ソロー「森の生活(上)」岩波文庫 26頁

泥棒

2008年02月04日 | Weblog
 私は、やむを得ずする仕事はできるだけ手軽に済ませて、自分の好きなことをやりたいという根性が常にあります。好きなことでも義務となったとたんに、この義務の束縛から逃れて早く自由になりたくなります。
 でも、猫をみていると義務なんかないのですね。外界の変化に応じて自然に体が動いて行動しています。餌をとるのも、毛繕いするのも、寝ているのも義務としていやいややっているのではなく、自然にやっています。人間みたいに寝てるのは良いことだけど、餌をとるのはやりたくないなんてありません。まあ、人間の場合は仕事が細分化されてしまって、自然じゃないことを仕事としてやらなくてはお金が貰えなくなってしまったとか、仕事を義務ととらえる理由は色々あるのでしょうが。
 私は、物心ついた頃から何時に学校に行ってと決められたスケジュールにそった生活をしてきたので、目の前のことを見ていたら自然に何かしたくなるという発想すらありませんでした。つねに楽しいこと、刺激のあること、自分にとって有利なことを、泥棒のように物色して暮らしています。
 でも、もう泥棒のように物色するのに疲れてしまいました。自分のはからいではない、何かに委ねて日々暮らしたいと思うようになりました。この何かを千変万化する外界に委ねたいと思います。朝起きて水を湧かした鍋をみていると、これをみそ汁にしようとか、何かをゆでようとか、次々と考えが浮かんできます。まあこんな調子で一日を過ごせたらいいなと思っています。