一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

主体的

2012年05月03日 | Weblog
 先日、電車になかで、席を三人分とって寝ているサラリーマンがいました。そうしたら、乗ってきた70代くらいの女の人が、ものすごい剣幕でその人の足をもって無理矢理動かし自分が座れるようにして、そのうえずーっと説教していました。

 道徳上からいえば、そのおばさんのやっていることは正しいことです。席はなるべくみんなが座れるようにつめて座りましょうと言われていますから。

 私はこれをみていて、なんか違うんじゃないかな、と思ったのです。そう思ったことについて、自分なりに少し掘り下げてみます。

 仏教を勉強していくにつれて、仏教というのは、自分の気持ちと物事を必ずセットで捉えなくてはいけないということがだんだんわかってきました。

 仏教の目的は苦からの脱却です。突き詰めて言えば老死の苦からの脱却です。仏陀は老死の苦の原因を外に人類を超越する人格神を追求するのでなく、自己の内部に向かって徹底的に追求しました。
 
仏教は、アタマで組み立てた論理ではなく、自己の内部のこころがどう感じているかで老死の苦から脱却する原因を探していったものです。

 そして、実相の真理を覚証する智慧、すなわち般若波羅蜜こそ、老死の苦から脱却するものだとしました。ここにいうところの智というのが普通われわれが智と名づけるものと異なっていることはいうまでもありません。いかに深淵な哲理でも、いかに精密な科学的知識でも、それを絶対最高の智と考えるのは、仏教の立場からみて正当ではない。私たちは主観と客観との区別を当然のことと考え、この区別に基づいて考えたり生活しています。しかしこの区別は必ずしも絶対的なものではなく、一つの仮定にすぎないとされています。般若の智慧というのは、人知のおよばない、一切の限定を超える智慧です。

 その般若の智慧は、他人の指示によって了解せらるべきものでなく、自らにてこそ了解うべきものである、とされています。

 ちなみに、般若の智慧の心の状態は、心の遊動することなく、さわがしさ(喧噪)から離れていて寂静である、と書かれています。

 冒頭に書いた女の人は、なんの疑いもなく自分は正しいことをしているんだというような顔をしていましたが、私は、自分の心に必ず照らし合わせることを忘れてはいけないような気がします。

 自分のこころが揺れてないか、さわがしさがないか、と。