一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「虚妄なる性によって」

2014年01月26日 | Weblog
 最近ストーカーされたのです。仕事先の管理人なのですが、私の回りをうろうろしないでくれって言っているにもかかわらず、必ず私のいそうな所で待っていて私の気持ちを無視してやさしそうに挨拶なんかするのです。腹がたって顔をみるのもいやになってしまいました。

 たぶん仕事場の人に相談しても、大人なんだからそんなの軽くあしらっとけばいいじゃない、と言うと思うのですが、私としてはしっくりいかないのです。

 でも本来私たちはそのようにつくられているのでしょうか。ストーカーなんていうのは、人工的な人間社会のなかのゆがみのなかで作られた産物ではないでしょうか。本来動物は回りの空気を読んで相手に会わせて行動しなければ敵に殺されてしまいます。うちの猫なんか他の猫にしつこくされるとこれ以上はしつこくするなといって、相手に牽制をかけていきます。そして、それを無視してなおもしつこくすると本気で相手をやっつけます。だから自然界のものは相手の空気を読んでそれに会わせて行動しないと淘汰されるようになっています。

 なんで回りの空気を読めないのかというと自分の考えに縛られているからです。相手の気持ちなんか関係なく、その相手とこうこうすれば自分はハッピーな気分になれる、と思い込んでるからです。逆をいえば、相手とこうこうならなければ、自分はハッピーになれない、という概念に縛られているということです。だって、執着する相手がいなくても、まあなんとか自分はそこそこに生活していけると思えば相手にそんなに執着しないはずです。

 私がなんでストーカーにこんな嫌悪感をもったのかと分析してみると、この自分の考えに縛られていること、言い換えれば、概念に縛られているものに対する嫌悪感だったのかもしれません。

 この概念に縛られているものに対する嫌悪感に関係して、紀元400年頃世親によって書かれて『唯識二十論』に次のような文があります。

「法はあらゆる場合に存在しない、と言う訳ではない。そうではなくて分別された自性による。愚夫たちによって諸法の自性が所取・能取等として分別されたこと、その分別された自性によってそれらは無我である、しかし諸仏の境界である離言の自性によってではない、と。」

 仏の悟られた世界にはいるのは、仏の悟られた言葉のない世界の性によって入るのではなく、愚かな人々が言葉の世界が虚しい妄想のようだという性に気づくことによってである、と言っています。

 上記では、仏のように苦しみのない世界に入るには、まず今の世界がおかしいと気づくことだと言っています。その点からみれば、私のストーカーに対する反応も穏便に見過ごす反応とはっきり嫌悪感を示すのは、仏の世界に入るか入らないかの分かれ目ほど重大なことかもしれません。ほとんど上記の文を説明するためのこじつけかもしれませんが。