一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「心が害されている」

2014年07月31日 | Weblog
 私たちは何かを考えたり見たりしたとき、そこに脳や身体の神経がつながって回路ができます。本来ならば、できた回路は瞬間瞬間壊されてまっさらな状態になっているはずなのです。でも、壊すだけのエネルギーが足りないと、回路はそのまま残ってしまって、また同じような状況や同じようなものをみたときに、その回路に電流が流れてしまいます。つまり考え方や見方にくせができてしまうということです。

 私たちは、そのときそのときで自分の意志でことを決定していると思ってますが、このあたまの回路のくせにはまってしまった考えかたや見方をしているのかもしれません。

 学校教育で他人にやさしくしましょう、お友達を大事にしましょう、と教えられます。親がどういう子に育って欲しいですか、と聞かれて、人にやさしい子になって欲しいとよく答えています。

 でも人間というのは、そんな単純に人にやさしくできるものでしょうか。上記でいった過去の回路がなければ、まっさらな状態ではそういうことができるかもしれません。でも
過去の回路で一番強烈に残っているのは、好きか嫌いかという感情的な印象です。過去にいろいろ嫌なことを言われたりした人には、自分の意志とは関係なく、この人は嫌な人だから避けたいという回路に電流が流れてしまいます。もしその人にやさしくしようとすれば、自分の気持ちに反しなければなりません。

 紀元四百年頃世親によって書かれた『唯識二十論』のなかに次のように書かれています。
 「例えば夢中の記識に対境無なる如く、醒めたるときにも若し同様ならば、夢見る人と夢見るに非る人との二人に於いて、善と不善とを行じたる場合、後世に於けるその果が何故に等しく愛と非愛とにならざるか。

 夢中の心は眠によって害せられたるが故に、彼[覚時のそれ]と果等しきにあらず。この点についてはこのことが因なり。されど対境の実有は爾らず。」
 
 ここでは、夢のなかでの物事は実際にはないように、醒めてるときにももし目の前に見えているものがないとするならば、どうして夢のなかでの出来事と醒めているときの出来事では結果が違うのか、という質問にたいして、世親は、夢のなかでは、心が無明によって害されているから、と答えています。

 上記の『唯識二十論』で心が害されているというのは過去の回路が消されなくてそのまま残っている状態も指していると思われます。『唯識二十論』では、私たちの心は害されているといって、はっきり過去の回路の心を見据えたうえで解決策を探しています。私たちの心の奥にはやさしくしたくてもできない過去の業に縛られた心があるんだというふうに人間の心を捉えています。そうやって自分の心を正直にみていけば自分の気持ちに反しなくてもいいことになります。

 それに反して言葉の世界では、自分のなかで流れている過去の回路の心に反して、道徳的・慣習的なことに従わなければなりません。人にやさしくしない人は悪い人、になってしまいます。だから、言葉の世界では、自分の心をむりやり言葉どおりにしようとコントロールします。むりやりいい人を演じようとします。

 でも、『唯識二十論』の世界では、過去の回路から流れる心に反してやさしくしようとするのではなく、過去の回路から流れる相手から離れたいという正直な心を見つめつつ過去の回路を壊すほうに目を向けます。過去の回路が消されれば、またまっさらな気持ちで相手に向き合うことができるのですから。過去の回路をもとの状態のまっさらな状態に戻すだけのエネルギーを蓄えるほうに目を向けます。だから、相手にやさしくしようとするのではなく、坐禅をして、エネルギーを蓄えようとするのです。