一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

身体の秩序

2010年09月06日 | Weblog
 元来、情報というものは、人間がよりよく生きるために必要なもの、役立つものとして、意味があったでしょう。しかしあまりにも広大な情報が常に与えられるとき、人はその情報に埋没してしまって、自己の主体性を失い、情報に指図されるだけとなる危険があります。(註1)

 上記は竹村牧男氏の言葉ですが、私も最近は人間と情報の関係が本末転倒してしまっていて、またそれすらも気がついてないように思えてならないのです。

目につくもの、耳につくもので興味のありそうなものを片っ端しから、拾っていけばいいのか、流されてくる情報を適当にピックアップしていけばいいのか。インターネットをただ興味のありそうな記事をだらだら見ていると、無駄な時間を費やしたようで虚しさだけが残ります。何を捨てていいかわからなくて、捨てられないものに囲まれている部屋のなかにいる居心地の悪さみたいなものを感じてしまいます。

 福岡伸一氏の本を読んでいたら、ガンの原因が過剰な情報伝達だというのです。
 
 「それは、Rasという細胞の情報伝達の中継点に位置するタンパク質が、突然変異をおこしており、過剰な情報伝達を行い、その結果、細胞が異常に増殖する。それがガンである。」

 何をもって、「過剰な情報」というのか。

 私は猫を見ていて思うのです。情報は二つの次元から見なくてはわからないのではないかと。

 一つはエネルギーの次元から。一つは思量の次元のからです。

猫はエネルギーのレベルから必要な情報かいらない情報か選択しています。
人間はほとんど思量のレベルからこれは必要な情報かいらない情報か選択しているようです。

  猫はなにか目で見ても、自分のエネルギーを減らさないものにしか反応しません。自分のエネルギーを減らすものは全部切り捨てます。

 人間は自分のエネルギーが減ろうが減るまいが、自分のアタマが喜びそうな情報かどうかでピックアップします。

 うちの下の猫は蛇口からしか水を飲まないので、水を飲みたいときは蛇口を見つめています。そうすると、蛇口を見ることで猫のなかの水分を補給したらいいというDNA等が動き出して感受された情報に基づいてエネルギーが配置され、それが神経線維を通じて電気的な情報が脳の視球へと遡行する。脳の次は水を飲むために筋肉にというようにエネルギーがドミノ倒しのように流れていきます。結局目で蛇口をみたことでエネルギーは身体中をくまなく巡ることになります。
 ドミノ倒しというのは、目に刺激を与えられるだけで、自然にこっちが倒れたら、その倒れる力でこっちが倒れてみたいに自然に流れていく流れです。その流れというのは、生物が自然淘汰されて今こうして生きていられるために必要な身体秩序というか、情報というべきものでしょう。

 猫の身体の秩序にのっとって流れているのでそこには自分のエネルギーは減らしていません。

 逆に蛇口を見ても、身体のなかの秩序が蛇口に反応しないのに、無理矢理水を飲もうとしてもエネルギーが減ってしまうので、水が飲みたくないときは、蛇口という情報は猫にはないのです。

 猫が目の前にあっても関心をしめさないものに人間が関心をしめすのは、仏教では、自我執着意識であるマナ識のはたらきに相当すると考えてみました。常住の自我はないのに自我があると思って我に対する深い貪愛で、実体視された我に執着するはたらき、です。

 マナ識の本質は思量するものとされています。

 マナ識が自己を貪り愛することによって、見たものを放っておけなくて、これは自分にとってプラスになるのか、マイナスになるのかとアタマ(考え)のモノサシの対象にしようとします。

 エネルギーレベルで身体はその情報は過剰だからいらないと言っているのに、マナ識のアタマ(考え)がこの情報は自分にとって魅力的な情報だから必要だといって情報を流しつづけるのです。

 私たちに必要なのは、エネルギーの次元の情報です。自然淘汰されて残った身体の秩序を尊重して声にかたむけることによって、エネルギーを減らさない情報です。


註1:竹村牧男「知の体系」佼成出版社 9頁