一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「'ざわざわ'」

2016年02月25日 | Weblog
 最近身の回りの物を最小限にして生活するミニマリズムという新たなライフスタイルが、若者を中心に共感を呼んでいるらしいのです。そのミニマリズムについて書いた本の著者は、次のように言っていました。「ミニマリストという言葉を知り、インターネットで画像検索したら、何も置いていない部屋で生活している写真が目に飛び込んできて、それを見たときに、驚きとともに、「身軽でうらやましいな」と思った。そこで、95%のモノを処分して、すっきりした部屋で過ごしたところ、「今まで好きな物に囲まれて心地よいと感じていたことが、実はモノからの情報が、‘ざわざわ’して、うるさかったんだと思うようになりました。」 と。

 ここで、心地よいと伝えていると思ったモノたちが、実は、‘ざわざわ’した情報を伝えていたことに気がついた、という点がとても面白いと思ったのです。

 ここで言っていることは、モノに焦点をあてているのではなく、それらのモノからなにが自分は伝わるのかに焦点をあてています。心地よさが伝わるのか、‘ざわざわ’が伝わるのかと。

 私は、これを読んで、最近ずっと考えてきたことは、これに関連しているのではないか、とふと思ったのです。

 仏教では、「縁起」を主な教義としています。「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

 必ず二つセットです。必ず太陽にたとえられる法が大前提にあって、私たちはそれとセットとしてとらえられます。

 また、それら二つは流れとしてとらえられています。法や私たちは常に滅し生じている、刹那生滅と考えられているからです。生物的にも、私たちの食べたものは、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出て行くことが証明され、つまり私たちの生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、ダイナミックな流れの中に成り立っていると、いわれています。
 
 この「縁起」の考え方からすれば、二つの流れのなかで存在とはどう捉えればいいのか、ということが、私が最近ずっと考えていることなのです。流れているからつかまえることができません。つかまえようと思った瞬間にはもう流れていってしまっていて、もうそこにはないのですから。ですから、いわゆるモノはないことになります。モノはつかまえることができますが、つかまえることができないのですから、モノではないのです。

 では、二つの流れの間に存在するものは何なんでしょう。私は、上記のミニマリズムの文もみて思ったのはこれなんです。二つの流れの間に存在するものとは「伝わってくるもの」ではないでしょうか。悟りを得たときに無分別智が伝わってくるといわれていますので、モノではない智慧のような私たちになにかを伝えてくれようとしているものを存在するものとするのではないでしょうか。

 だから、上記のミニマリズムのところで'ざわざわ'してうるさい情報だったと気がつかせてくれたのでしょう。

 最近「縁起」について考えていたら、私も、パソコンを見る時間を減らすようになりました。パソコンを消したあとは、なんとなく虚しいのです。パソコンのなかは、言葉の虚構の世界です。言葉というのは、流れていません。流れていないものからは本当に私たちが満足できる「伝わってくるもの」はないからでしょう。