一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

拮抗

2012年12月30日 | Weblog
 猫を見ていて感じる美しさ、特にジーッと哲学しているような美しさが、意外と仏教のめざす美しさと一致するのではないでしょうか。

 あの美しさは猫が何かと拮抗しているから美しいのではないかと今気づきました。拮抗というのは互角の力のために動かない状態です。お相撲さんがお互いの力が同じために全然動けない状態の様子です。

 動かない状態というのには、二通りあります。電化製品の電気をオフしているときのように動かない状態と何かの力と拮抗していて動かない状態です。

 その何かとは私を生みだした力。そして私の心臓を動かし続けていてくれる力で法界です。

 逆を言えば、同じジーッとしているといっても、何かと拮抗してなくて、たんにエネルギーがなくて動けないときには、美しさは感じないと思います。

 私たちは法界と拮抗して今の状態を維持できるのであって、自分のエネルギーが減ればとたんに滅ぼされる方向に向かわされます。ただ単にエネルギーのない状態といのは滅ぼされる途中の状態だから見て美しさを感じるわけがありません。

 この拮抗している互角の力のために動かない状態ということを考えたとき、私たちが学校教育で習った数学の考え方で考えるからわからない落とし穴が仏教にはあります。私たちは、適当に手をぬいてやっても、その完全からみたら70%位の状態を積み重ねれば100%になるから、いつか100%のところに到達できるだろうと考えます。

 でも、仏教の考え方では70%位の状態をなんぼ積み重ねても100%にならないんですね。法界と拮抗できる力以外はすべて幻や夢や陽炎のようなものだから幻をなんぼ積み重ねても所詮なにもないのです。

 逆に自分のエネルギーのステージを上げて、幻影をひとつひとつ消していって、最後に拮抗する力に行き着こうとする考え方です。だから最後には、なにもない状態になります。

 最後に行き着いた拮抗する力のある状態を「法界等流(ほっかいとうる)」といって、その状態にだけ、法界すなわち自分を取り巻くエネルギーとつながる事が出来ると言います。幻は自分の袋小路みたいな小さな世界しかもってませんが、法界と拮抗する力のある状態は法界とつながることができるのでとてつもない大きな世界を持つことが出来ます。

 私はお寺や神社にいったときの、あのピーンとはりつめたようなよく掃き清められた庭の雰囲気が大好きです。あの雰囲気は猫がジーッとしている雰囲気とよく似ています。何かと拮抗して動かない、なにもない、あるのはただほのかに感じる澄んだ明るさだけという雰囲気です。