一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

その先にある選ぶはたらき

2012年08月04日 | Weblog
 銀座を歩っていれば、魅力的なものがたくさんあります。プランタンの入り口に列が出来ていて何を欲しくて列ができているのかとみれば、お菓子を買いたくて並んでいます。

 並んでいる人は、そのお菓子にばかり気をとられています。

 でもそのお菓子の先にあるはたらきに気をとられている人は少ないようです。

そのお菓子を選ぶべきかどうかを決めるはたらきです。お菓子は選ばれてはじめて自分にとって意味のあるものになるのであって、選ばれなければただそこにあるだけのものです。

 これを書いていてこの前の犬仲間のことを思いつきました。先日犬仲間がすごい剣幕で怒っていました。ただ散歩させてただけなのに、俺の前で犬を歩かせるなといって大声で怒鳴られたから警察へその男を連れて行ってきた、と言っていました。

 もうその状況にどっぷりつかっています。相手の男のやっていることは絶対間違っているんだし、自分はこんなにいやな思いをしたんだから、だまってはいないという感じです。これはお菓子しか見てない人です。

 売られたけんかでも売られたけんかを選択しないことに気がついている人もいます。相手にならないでそんなのにエネルギーをつかうだけ損、みたいに受け流せる選択に気がついている人です。これは、お菓子の先に選択するはたらきを見ている人です。

 仏教では、選ぶはたらきは変化しうることを教えてくれています。選ぶはたらきというのは、悪い方からみれば執着ともいえるでしょう。だから、執着するはたらきは変化しうることです。けんかを売られても、さらっと受け流せる場合からストーカーになって相手を殺すところまでやる場合まで、執着の度合いは変化しえます。今売られたけんかにかっかきてるから、死ぬまで自分はかっかする自分なんだろうと思ってしまいますが、そうではなくて、かっかする度合いは変わり得ます。

 仏教は、けんかを売られたとき、ただ相手の言葉にかっかしてエネルギーをつかうのではなく、売られたけんかを選択しないでいられるように自分を変化させるはたらきのほうにエネルギーをつかうことを教えてくれています。