一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「罰則」

2016年01月21日 | Weblog

 仏教の主要な教義は「縁起」です。

 「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

 これでわかるように、「縁起」は必ず二つでセットです。縁起とは、二つセットでお互いを制約しあっているので、片方を無視したときには「私を無視したわね。」ともう一方に罰則を残します。

 どんな罰則かといえば、反対に見えるようにする罰則です。

 このことに関連して、昨日のことが思い浮かびました。昨日仏教の勉強仲間と昼食会がありました。ちょっと日本酒を飲んでみんなでわいわいとても楽しかったのです。でも、楽しかった分一人での帰り道は寂しくなってしまいました。

 でも、待てよ、と思ったのです。昼食会は楽しかったけれども、あとに引きずるほどの楽しさか、と自分に聞いてみると、あれはあのとき限りであれ以上続けていたら飽きてしまう楽しさではないかと思ったのです。 それを引きずっているから、寂しいのではないかと。本当は苦しいものを、楽しいものと反対にみてしまう罰則に私ははまっているのではないかと。昼食会は楽しかったけれどもその楽しさをひきずる執着心が苦しみに変わるのにいまだに楽しいものと思い込んでいるのではないかと思ったのです。

 私は反対の世界に迷い込んで自分でも気がつかないで、楽しいもの楽しいものと思い込んで何かを求めているとき自分でも理由もなく、寂しくなったり苦しくなったりします。自分では楽しいものと思いこんでるので、どうしてもそれを手に入れたく仕方がないので、苦しくてもあきらめることができません。そんな苦しみのスパイラルに落ち込んでどうしようもないとき、ふと野良猫がジーッとしている姿が思い浮かびます。そうすると、なぜか、すっとその苦しみのスパイラルから抜けだせるのです。

 野良猫は、どんなときでも、一匹でジーッとうずくまってもう一方の世界向き合っています。猫が、反対に見える罰則から抜けだせる「縁起」の世界があることを教えてくれています。