一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

本源的生命の声

2008年07月03日 | Weblog
 今竜樹尊者の「中論」を勉強しているので「正法眼蔵」よりついつい「中論」からの引用が多くなってしまっています。ブログの題が「正法眼蔵」的日々なのに「中論」について書いていてはおかしいようですが、「中論」は「正法眼蔵」の核の部分が書いてあると西嶋老師も言っておられます。「中論」を論じることは「正法眼蔵」の中核の部分を論じていることになりますので、「正法眼蔵」的日々を逆にポイントを絞って書けると思います。

 「中論」の第二章では実在の「行い」について書かれています。第三頌に次ぎのように書かれています。

 「『行きつつある』という事実の中で現に行くという現実の行いを実行している場合には、それを何らかの言葉で表現しようとしても、そのことは不可能である。」(注)

 この頌で言っていることは、こぼれそうな水をはこんでいることを例にとると私はわかりやすいのです。水がこぼれないように水を見ながら足の裏では地面に石ころはないかと感触を確かめ体全体の感触をつかってこぼさないようにバランスをとります。このように事実関係だけに神経を集中して運んでいるときは、今行っていることを言葉で表現するような余裕はありません。少しでも私は今右足をだしました、今度は左足をだします、なんて言葉で表現しようとすると動作の表現に付随して諸々の思いも起こってきて、バランスをとるのに体の感触に集中できなくて水をこぼしてしまいます。

 何か行いつつあるとき人間以外の自然界のものは現実に身を置いている場所で体全体の感触をつかって眼の前の世界をとらえようとします。人間のように昨日の後悔の念が浮かんできたり、明日の不安が浮かんできたり、こんなことを言ったら人にどう見られるだろうとか、もっと楽な方法はないかとかの頭の中での考えがでてきてその考えのほうに気をとられ現実に身を置いている場所での体全体の感触ががなおざりになっている生き物は人間だけです。「中論」でいっている人間本来の「何か行いつつある状態」というのは自然界の生き物のように頭のなかの考えにとらわれてるほど余裕のあるものではなく、体全体の感触に集中して体が動いていくことだと思います。

 しかし上記のようにこぼれそうな水をこぼれないように運んでいるように一日中自分の身体全体の感触に意識を集中していては気が狂ってしまいます。そこで頭を使わないで一つのことに体ごと入る「行」というのはどういうものかということを体で覚えるために坐禅という修行方法があるのです。坐禅をしているときでも何か考えは浮かんできますが自分の姿勢のほうに関心をもっていきます。背骨は真っ直ぐになっているか、あごは引いてあるか、目線は斜め下になっているか等です。頭よりも体のほうに意識をもっていくことで考えが浮かんでもそれ以上考えを追っていくことができなくなります。それを繰り返しているうちに頭からではない体からの声、私の力ではない本源的生命の声というような声が聞こえてきます。

 実在の「行い」は坐禅によって頭に曇らされない本源的生命の声に従っていく「行い」ではないでしょうか。

注:ナーガールジュナ(竜樹尊者)著 西嶋和夫(愚道和夫)訳「中論」金沢文庫 28~29頁