一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(流れあうもの)

2018年04月27日 | Weblog

 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 その一点をみていたら、こんな疑問がわきました。意識・精神と目の前に見えているものは一点に束ねられるかどうかということです。それに関連して『正法眼蔵』の(即心是仏の巻)に次のような文がでてきます。

 「此の身は即ち生滅有り。心性は無始よりこのかた未だかって生滅せず。身生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり。其の性は常なり。南方の所説、大約此の如し。」

 「我が此の身中に一の神性有り。此の性能く痛痒を知り、身壊する時、神即ち出で去る。舎の焼かるれば舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり。舎主は常なり。」

 上記をみると、「「心」とか「神」とかいう霊魂のようなものが我が身が滅しても龍が骨を換えるように、蛇が皮を脱して次の皮を作るように、人が死んでしまったら別の人の肉体のなかに住むように、永遠に存在する、と南方では言われている。」と書いてあります。

 それに対して霊魂の存在を道元ははっきりと次のように否定しています。

 「いはゆる正伝しきたれる心というは、一心一切法、一切法一心なり。心とは山河大地なり。日月星辰なり。」と。

 道元と前記の南方の所説の差は、南方の所説が「心」を単独でとらえ、道元は「心」と「一切法」とセットでとらえています。

 なんで「心」と「一切法」はセットなのかと考えたとき、ふとひらめきました。道元のいいたかった「心」というのは、双方のあいだに流れるものを指していたのではないかと。

 目の前のものをみていて、ああ山があるね、河があるね、で終わる人には「心」はないのであって、山や河をみて流れてくるもの、私のなかのなにかと共感するものがあってはじめて「心」といえるのではないかと思うのです。

 自然の山や河をみると、悠久の昔から続いている静かな生命の営みの世界を感じます。小さな小鳥一羽の営みでさえ見ていると謙虚な気持ちにさせられます。なんか自分が恥ずかしくなります。このように私のなかで動くもの、共感するものがあってはじめて、山や河があるよといえると思うのです。

 また「心」と「一切法」がセットというのを考えた場合、山や河から流れてくるものはあっても、それを受け止める受信器がないと受け止められません。必ず双方か関係しあっています。山や河がなければ私の「心」は動かないし、私の「心」の状態で流れるものをキャッチしたりしなかったりするというので互いに切り離せない状態です。

 この双方に流れるものを考えると、意識と目の前に見えているものとは一点で束ねられるのではないでしょうか。流れあえばみんなひとつです。