一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(全体を眺めているあなた)

2010年01月27日 | Weblog
 大きな地図の中を、親指くらい小さくなった自分が歩いているところを、外側から観察するとします。全体を眺めているあなたにはゴールが見えていますが、地図の中のちいさなあなたには、すぐ近くの道しか見えません。途中に、むらさきの美しい房をたらしたブドウがあれば、小さなあなたは食べたいと思い、立ち止まるでしょう。食べ終えてまた歩き出したとき、右手におもしろそうな遊園地が見えてきたら、小さなあなたはちょっと遊びたいと思い、そちらに足を向けるでしょう。
 こんな具合に、「したいこと」のなかにはゴールに関係のない欲望がたくさん混じっていると思います。お酒を飲む、ぱっと遊ぶ、気晴らしに買い物をするーーーそれらはみな自分のうちから湧き出たものですが、大切なことではないとおもうのです。(註)

 私は松浦弥太郎氏のこの文を見て、私が今疑問に思っていることを代弁してくれているような気がしました。

 その疑問とは、私たちが本当にとりあわなければならないのは、目に見えるものなのかどうか、目に見えるものに振り回されて一生終わってしまっていいものなろうかということです。

 私たちは目にみえるものにいちいち取り合っていたのではいつまでたってもゴールにたどりつけません。


 「生物と無生物のあいだ」の著者の分子生物学者の福岡伸一氏も「生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではない」「存在と呼べるものは部品という物質そのものではない」といっています。

 むらさきの美しい房をたらしたブドウが目の前にあっても、「小さなあなた」にはそれが本当のブドウとして見えているけれども、「全体を眺めているあなた」にはゴールに関係のないブドウは幻影としてとらえられるかもしれません。これは幻影だからとりあわないで先に行こうとします。

 幻影だからとりあってエネルギーをつかっても、手応えもないだろうし、満足感もなく、虚しさが残るでしょう。幻影にとりあってエネルギーを使い果たしてゴールにたどりつけません。

 猫をみてると、猫は「全体を眺めているあなた」で、ゴールに関係のあるものと幻影を完璧に見分けています。

 うちの猫が毎朝戸のまえで外のベランダにだしてくれといいます。戸をあけてやると、さっと出ていくときもあれば、寒いと出て行かないし、一回躊躇してまた出ていこうとしたりいろいろです。ベランダが猫にとって存在するものなのか幻影なのか判断できているんだと、私は関心して見ています。

 洗練された生き方を目指すためには、自分にとって幻影なのか存在するものなのか、それを自分の内から教えてくれる声を探し続けることのような気がします。

 (註)松浦弥太郎「今日もていねいに。」PHPエディターズ・グループ