一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

寄り道

2007年10月28日 | Weblog
 昼間何人かで結構かたい話をした夕方の帰り道、無性に寂しくなって、どこかに寄り道してこの寂しさを紛らわしたくなりました。私の言ったことが,軽くながされてしまったり、思うような反応がかえってこなかったり、また、疲れてしまっていたり空腹だったりが、ごちゃごちゃになってしまって、自分でもわからなくむしゃくしゃしていました。 でも、前回のブログで書いた、心とは心意識に訴えないからだ全体からでる感情である、ということが心にひっかかっていて、からだ全体のむしゃくしゃはどれなんだろうと電車のなかで考えました。
 からだ全体からでるむしゃくしゃは、疲れたとか、空腹であるとか、これから晩ご飯の支度をしなくてはいけないとか、季節的、時間的な寂しさからでていると推測しました。自分の意見が認められなかったとかは、心意識からでるむしゃくしゃと推測しました。心意識からのむしゃくしゃは空の下の雲のようなものだと思います。放っておけば翌朝には消えています。逆に、自分が認められなかったむしゃくしゃにしがみついて、他のもので紛らわせようとしたり、認めてくれなかった相手の悪口をだれかに言って憂さ晴らしをすると、その後でもっと寂しさや後悔を感じることが多々あります。からだ全体からでる感情に焦点を合わせて、なんかむしゃくしゃするなあ、と思いながらも仕方なく晩ご飯の支度をしてたりすると、余計な寂しさや後悔は感じないですみます。
 良寛さんの歌に次ぎのようなのがあります。

 行く秋のあわれをたれに語らまし
   あかざ籠(こ)に入れて帰る夕暮れ

 (意訳)お菜に摘んだあかざをかごに入れて、ひとり草庵に帰る夕暮れの、過ぎて行く秋の物悲しさを、だれに話したらよいだろうか。(注1)

 良寛さんは、とことん寂しさのなかに身をあずけています。からだ全体からでる感情に焦点をあわせて、自分勝手な手を加えようとはしていません。

注:倉賀野恵徳「意訳 蓮の露」(株)山喜房仏書林 24頁

「心不可得」 

2007年10月21日 | Weblog
 「正法眼蔵」では、心をどのように捉えているのか「心不可得の巻」を読んでみました。私の力では自分のものとするにはまだまだ時間がかかりますが、間違っているかもしれませんが、「正法眼蔵」の心の捉え方を書いてみたいと思います。
 「正法眼蔵」では、体と心とを別々にわけて説明するということはけっしてしない、と言っています。体が心であり、心が体であるという捉え方をします。

 「正法眼蔵 心不可得の巻」に

 「唯心これ唯心なるべし、是仏即心なるべし」(注1)
 心といってみても、それが人によって、言葉によって説明されるというふうなものではなくて、坐禅をしておる各人がまさに仏であり、その体全体がすなわち心というものの実体である。(注2)
 
 体全体が心だとすれば、前回のブログで書いた「肉体からでる感情」がまさに「正法眼蔵」でいう心ということになります。
 坐禅をやっているときは、うれしいも悲しいもない。何だかよくわからないけれどもとにかく坐っている。そこには特別のこれといったものがない。
 「正法眼蔵」でいう心とは、喜んだり悲しんだりそう波のあるものではなく、非常に安定したもので、「肉体からでる感情」と坐禅の時の特別これといったものがない感覚だと思います。
 喜んだり悲しんだりは、「肉体からの感情」ではなく、「あたまからの感情」(エゴや以前に見聞きしたものが、記憶の入れ物から出てきて写る実態のない影からでる感情)のことが多いのではないでしょうか。
 また、「正法眼蔵」では、心は心だけで捉えることは決してないと言っています。
悲しい心があるから、迷ってる心があるから、どうにかしなくては、みたいな捉え方はしません。心と物とがぶつかった現実の行為の中にだけ心はあるという考え方をします。どんなに迷っていても、坐禅の時の心でもって現実をみて判断して行動するだけです。

注1:西嶋和夫「正法眼蔵提唱禄 第三巻上」金沢文庫 209頁
注2:同上同頁 参照

肉体からの感情

2007年10月14日 | Weblog
 車で小椋 佳のアルバム(注1)を聴いていたら、思わず詞のほうに関心がいってしまう詞がありました。次ぎのような詞です。

 岩漿(マグマ)
 私が 私と 思っている 私とは
 異なる 私が 間違いなく 存在する
 私が 知ってる 私はただ 海の上に
 浮かんだ 氷山 一角だけ ほんの一部
 私の 知らない 何倍もの 固まりが
 ひっそり 隠れて 水面下に 存在する
 いやいや 氷は 喩えとして 正しくない
 地中に 燃え立ち 燃え続ける マグマだろう

 マグマが動いて 人に 惹かれ始め
 マグマの指令で 人に 逢おうとする

 私が 私と 思っている 私には
 私の 胃と腸 心臓さえ 動かせない
 私の 命の 維持存続 その大事に
 知性も 理性も 関わるのは ほんの一部
 意識の 制御の 及ばぬもの マグマの技
 私の 知らない そのマグマも 私自身
 欲望 情念 衝動など 胸底から
 休まず 私を 突き動かす マグマの熱

 マグマが動いて 人に 惹かれ始め
 マグマの指令で 人に 逢おうとする

 始めに理由や 訳が 有るのでなく
 そもそも理性や 意志の 働きでなく
 どうしようもなく 人が 恋しくなり
 マグマの力で 人を 愛し始める

 この詞でいっているのは、本当の自分とは、自分でも知らない知性も理性も関わらない、水面下の自分もひっくるめた自分であるということでしょう。私が、最近気がついたことは、「生命と無生命のあいだ」(注2)を読んで気がついたのですが、自分の知性や理性からだけではない、自分の肉体からでる感情があるということです。体は、知性や理性と関係なく、自分の水面下で天文学的数字の分子を操って体の維持存続のために平衡を保って、一時も滞らず動いてくれています。人間はロボットではなく、感情をもっています。そうすれば、水面下の分子レベルの動きは、単に機械のように体を動かすだけではなく、人間にとって一番良い感情も生み出してるのではないでしょうか。
 肉体から一番良い感情がでているのに、それを無視して知性や理性だけで行動すると、肉体も感情も壊れるのではないかな。
 「正法眼蔵 海印三昧の巻」にも次ぎのように書かれています。

 「相逢スルモ拈出セ不 意ヲ挙シテ便チ有ヲ知る なり。」(注3)
  何らかの事物に遭遇しても それを概念的に把えることをせず、それを意識全体で把えた場合にはじめてその存在を認識するといったような状態である。(注4)

 「正法眼蔵」では、物心一如論なので、肉体からの感情を大切にし、また現実に実在しない肉体からの感情を無視した理性というものは認めないと思います。

注1:CDアルバム「未熟の晩鐘」小椋 佳  TOSHIBA-EMI LIMITED
注2:福岡伸一「生命と無生命のあいだ」講談社現代新書
注3:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 12頁
注4:同上 16頁

「有機体レベル」と「概念レベル」

2007年10月08日 | Weblog
 前回のブログの題材にした著書「生物と無生物のあいだ」では、生命とは動的平衡の流れであって、分子レベルでは瞬間瞬間生滅がおこなわれている、と書かれていました。その著書では物質レベルの瞬間瞬間の生滅が取り上げられていますが、「正法眼蔵」では、われわれの主観も含まれた法レベル(主観とわれわれを取り巻く物質の世界)の瞬間瞬間の生滅が書かれています。
 「正法眼蔵 海印三昧の巻」では、

 「我我起、我我滅なるに不停なり」(注1)

『本当の自分というものが生まれたり、本当の自分というものが消滅したりということは、この法の世界の中で瞬間瞬間におこなわれている。』
 
 それでは瞬間瞬間に起滅する本当の自分とはどういう自分なのかというと、次ぎのように書かれています。

 「相逢スルモ拈出セ不 意ヲ挙シテ便チ有ヲ知ル なり。」(注2)

 『何らかの事物に遭遇しても それを概念的に把えることをせず、それを意識全体で把えた場合にはじめてその存在を認識するといったような状態である。』(注3)

 「手ヲ背ニシテ枕子を模スルの夜間なり。」(注4)

 手を後に廻してはずれた枕を手さぐりで探す本能的な無意識の動作。(注5)
 
 本当の自分は、思慮分別して行動する自分ではなく、坐禅している時にからだ全体で感じる意識(浮かんでくる思いや考えも含めて)から行動する自分だと書いてあります。本当の自分は概念レベルではなく有機体レベルで生きているということになります。
 私は、安心を概念で得ようとして、安心材料の概念をいろいろ揃えようとしていましたが、本当の安心は得られませんでした。只管打坐の坐禅を通して有機体レベルの落ち着き感がはじめて持てた気がします。概念の安心材料をそろえて「守り」を固くすることではなく、有機体レベルの直観が、概念にしがみつくことで曇ってしまわないように、しがみつく概念を「壊して」いくことが「正法眼蔵」的ではないでしょうか。
 
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 8頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 12頁
注3:同上 16頁
注4:同上 12頁
注5:同上 13~14頁

壊される前に壊す

2007年10月01日 | Weblog
 ある人に薦められて福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」を読んでみました。その中で、生命とは自己複製するシステムである、と定義されると同時に、
 
 生命とは動 的 平 衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである

と再定義されるといっています。

 海辺の波打ち際の砂浜に砂で作られた弓形の模様は波が寄せてはか返し同じ形を保ったままじっとそこにあるように見えても、砂粒はすべて波と風に奪い去られて、現在この形を作っている砂粒は新たにここにもられたもので、砂粒はすっかり入れ替わっている。
 この砂浜の模様のように人間の肉体というものも、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということである。
 では、なぜこのように分子レベルで分子が瞬間瞬間入れ替わっている理由は、

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

と書いてあります。
 私は、この部分の‘絶え間なく壊されなければならない’に、とても興味をそそられました。秩序を守るために、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築をおこなうためというのです。流れが流れつつも一種のバランスを保ち、つまり平衡状態を保つ再構築をおこなうためです。
 「正法眼蔵」のいっていることも、まったく動的平衡です。瞬間瞬間平衡で日常生活を送っていくことが目的です。仏教でも刹那消滅の道理という基本思想があります。世界のいっさいが瞬間、瞬間に生まれては消え、生まれては消えしてるというのです。これは、まさに、「生命と無生命のあいだ」が裏打ちしてくれています。この道理は「現在の瞬間」の実在しか認めない仏教の道理として私は捉えていました。でもこの本を読んで、もう一つの捉え方もあるというのに気が付きました。壊れる以前に壊さなければならないと言うことです。良寛さんをみてもいっさい余計な考え、ものは持っていませんでした。絶え間なく壊れる以前に壊していたからではないでしょうか。


参照:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書