昼間何人かで結構かたい話をした夕方の帰り道、無性に寂しくなって、どこかに寄り道してこの寂しさを紛らわしたくなりました。私の言ったことが,軽くながされてしまったり、思うような反応がかえってこなかったり、また、疲れてしまっていたり空腹だったりが、ごちゃごちゃになってしまって、自分でもわからなくむしゃくしゃしていました。 でも、前回のブログで書いた、心とは心意識に訴えないからだ全体からでる感情である、ということが心にひっかかっていて、からだ全体のむしゃくしゃはどれなんだろうと電車のなかで考えました。
からだ全体からでるむしゃくしゃは、疲れたとか、空腹であるとか、これから晩ご飯の支度をしなくてはいけないとか、季節的、時間的な寂しさからでていると推測しました。自分の意見が認められなかったとかは、心意識からでるむしゃくしゃと推測しました。心意識からのむしゃくしゃは空の下の雲のようなものだと思います。放っておけば翌朝には消えています。逆に、自分が認められなかったむしゃくしゃにしがみついて、他のもので紛らわせようとしたり、認めてくれなかった相手の悪口をだれかに言って憂さ晴らしをすると、その後でもっと寂しさや後悔を感じることが多々あります。からだ全体からでる感情に焦点を合わせて、なんかむしゃくしゃするなあ、と思いながらも仕方なく晩ご飯の支度をしてたりすると、余計な寂しさや後悔は感じないですみます。
良寛さんの歌に次ぎのようなのがあります。
行く秋のあわれをたれに語らまし
あかざ籠(こ)に入れて帰る夕暮れ
(意訳)お菜に摘んだあかざをかごに入れて、ひとり草庵に帰る夕暮れの、過ぎて行く秋の物悲しさを、だれに話したらよいだろうか。(注1)
良寛さんは、とことん寂しさのなかに身をあずけています。からだ全体からでる感情に焦点をあわせて、自分勝手な手を加えようとはしていません。
注:倉賀野恵徳「意訳 蓮の露」(株)山喜房仏書林 24頁
からだ全体からでるむしゃくしゃは、疲れたとか、空腹であるとか、これから晩ご飯の支度をしなくてはいけないとか、季節的、時間的な寂しさからでていると推測しました。自分の意見が認められなかったとかは、心意識からでるむしゃくしゃと推測しました。心意識からのむしゃくしゃは空の下の雲のようなものだと思います。放っておけば翌朝には消えています。逆に、自分が認められなかったむしゃくしゃにしがみついて、他のもので紛らわせようとしたり、認めてくれなかった相手の悪口をだれかに言って憂さ晴らしをすると、その後でもっと寂しさや後悔を感じることが多々あります。からだ全体からでる感情に焦点を合わせて、なんかむしゃくしゃするなあ、と思いながらも仕方なく晩ご飯の支度をしてたりすると、余計な寂しさや後悔は感じないですみます。
良寛さんの歌に次ぎのようなのがあります。
行く秋のあわれをたれに語らまし
あかざ籠(こ)に入れて帰る夕暮れ
(意訳)お菜に摘んだあかざをかごに入れて、ひとり草庵に帰る夕暮れの、過ぎて行く秋の物悲しさを、だれに話したらよいだろうか。(注1)
良寛さんは、とことん寂しさのなかに身をあずけています。からだ全体からでる感情に焦点をあわせて、自分勝手な手を加えようとはしていません。
注:倉賀野恵徳「意訳 蓮の露」(株)山喜房仏書林 24頁