紀元400年頃インドで世親(ヴァスバンドゥー)に書かれた『唯識二十論』に次のように書かれています。
「すべて天界に生じている彼等畜生は、実に、その環境世界の楽を感じる業によって、その天界に生じて、そこから生じる楽を感受するが、しかし、地獄の番人等は、此の如くには、地獄の苦を感受するのではない。」
そこで、その天界に生じて、そこから生じる楽を感受する、と書かれています。
私たちが生きている世界はいろいろな段階があって、自分のいる世界から生ずる楽や苦を感受しているんだといっています。
それぞれの世界とは仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天と5つの世界に分けています。地獄等とか聞くと、私たちには遠い話のように感じますが、地獄等は極身近なことを指していると思います。
例えば、なんとなく友達が私に冷たい態度をとってるような気がすることに対して、それをものすごく苦と感じて眠れなくなったり相手に怒りをぶつけてどなったり、から、まったく意に介さず淡々と生活出来る人といろいろな段階に分かれます。
また他の例として良寛さんの例があります。ちまたでは孤独な老人はかわいそうといわれます。でも、良寛さんの歌に、外で降っている雪の音を聞いている私はなんて幸せ者だろうと詠んでいます。
友達の冷たい態度に眠れなくなっている人や自分は孤独な老人だから不幸せだと思っている人は地獄の世界にいる人だから、そのことに対して地獄の世界から生ずる「苦」を感受してしまっていることです。でも天の世界にいる人は、そのことに対して「苦」は天から生じてないから、まったく意に介さず淡々と生活出来ます。
地獄の世界から生じている楽や苦は、他の世界では生じてないのです。ということは、私たちが今味わっている「苦」は、自分が別の世界へシフトすれば感じないですむということです。
猫は別の世界があることを教えてくれる達人です。うちの猫は、死ぬ一週間前まで窓辺でひなたぼっこをしていました。うちの猫のいた世界では、病気や死でさえ「苦」を生じてなかったみたいです。
「すべて天界に生じている彼等畜生は、実に、その環境世界の楽を感じる業によって、その天界に生じて、そこから生じる楽を感受するが、しかし、地獄の番人等は、此の如くには、地獄の苦を感受するのではない。」
そこで、その天界に生じて、そこから生じる楽を感受する、と書かれています。
私たちが生きている世界はいろいろな段階があって、自分のいる世界から生ずる楽や苦を感受しているんだといっています。
それぞれの世界とは仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天と5つの世界に分けています。地獄等とか聞くと、私たちには遠い話のように感じますが、地獄等は極身近なことを指していると思います。
例えば、なんとなく友達が私に冷たい態度をとってるような気がすることに対して、それをものすごく苦と感じて眠れなくなったり相手に怒りをぶつけてどなったり、から、まったく意に介さず淡々と生活出来る人といろいろな段階に分かれます。
また他の例として良寛さんの例があります。ちまたでは孤独な老人はかわいそうといわれます。でも、良寛さんの歌に、外で降っている雪の音を聞いている私はなんて幸せ者だろうと詠んでいます。
友達の冷たい態度に眠れなくなっている人や自分は孤独な老人だから不幸せだと思っている人は地獄の世界にいる人だから、そのことに対して地獄の世界から生ずる「苦」を感受してしまっていることです。でも天の世界にいる人は、そのことに対して「苦」は天から生じてないから、まったく意に介さず淡々と生活出来ます。
地獄の世界から生じている楽や苦は、他の世界では生じてないのです。ということは、私たちが今味わっている「苦」は、自分が別の世界へシフトすれば感じないですむということです。
猫は別の世界があることを教えてくれる達人です。うちの猫は、死ぬ一週間前まで窓辺でひなたぼっこをしていました。うちの猫のいた世界では、病気や死でさえ「苦」を生じてなかったみたいです。