一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

いやな人

2008年01月29日 | Weblog
 この世の中には、いやな人は山ほどいます。人工的な紛いものの部分が多い人ほど、いやな人と私は感じます。人工的な紛いものとは自分のアタマの中でつくりだしたもの、自分に都合の良い考え、あるいは不安感からでている考えなどです。
 いやな人が山ほどいるなかで、あの人イヤ、あの人イヤ、とつきあわないのも、何かしっくりいきません。
 猫をみていると、人工的なものは無視します。先日点のライトが動くのを追って遊ぶおもちゃを買ってきたのですが、うちの猫はまったく興味をしめさないのです。考えてみたらライトの点は、なんぼ追いかけても捕まえられないし、手応えもないし、食べられません。また、テレビに映っている鳥をみても、最初はテレビにとびついたり、テレビの後ろのほうにまわって鳥を探したりしていましたが、それが本物でないとわかると、テレビをみていても無関心です。
 私は、人間も猫と同じだと思うんですね。いやな人がいたら、なにかその人がいやなことをしゃべっていても、テレビに映ってる人がしゃべっていることと思えばいいのです。しゃべってる内容でいやと感じることは人工的なものなので、テレビの鳥と思って無視すればいいのです。それに取り合ってしまって、一生懸命テレビにとびついてしまうから、結局耐えられないとなって、相手を拒絶することになってしまいます。
 前回書いた「正法眼蔵海印三昧」の言葉、

 「包含は著にあらず、包含は不宿なり。」(注1)

 の意味は、相手を拒絶しないということは、相手の人工的な部分には著(じゃく)さない、取りあわないと言うことではないでしょうか。そして、いやなものはいやなので距離感はとりつつ、その人の現実の部分までは拒絶しないで包含するということだと思います。
 そのためには、本当に自分がひとりで立ってることができないと、相手の人工的な言葉にとびついてしまいます。私は、常に眼前を見ていて感じることからの行動を、人の言葉よりも最優先します。人間は、何もしなくても人工的な言葉にとびつかないことができるとは思いません。やはり坐禅と智慧を探し続けなければ、相手を拒絶することになり、何かしっくりいかないままで過ぎていくでしょう。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 26頁

「行(ぎょう)」と「行い」

2008年01月25日 | Weblog
 「行(ぎょう)」と「行い」はどこが違うのでしょうか。私はその違いがはっきりわからなかったので、はっきりさせたいとずっと考えてました。はっきりさせることによって、今の日常生活をもっとスッキリさせるポイントが隠されてるような気がしていたのです。
 
 「行(ぎょう)」というのは、今目に見えるもの、今聞こえたりするものに何かを感じ、手をだしたくなって、次から次へ行っていくことだと思います。今目に見えるもの、今聞こえたりするものというのは、現実そのもののことです。それは、文字の羅列であったり、概念の結び合わせではありません。
 「行い」は、今目に見えるもの今聞こえたりするものに何かを感じ、手をだしたくなることが抜けてしまって、ただアタマでこうしよう、で行います。
 「行(ぎょう)」の例として、今行きたい店があるんだけど、テーブルの上に今やらなければならない仕事が置いてあるのが目にとまったとします。仕事の書類をチラッチラッと横目でみているうちに、ちょっと手をだして眺めてみる。そうするとだんだん仕事のほうにひきこまれていってしまうような行動です。
 「行い」の例は、仕事の書類が目にとまろうが、今行こうと思い込んだら行くということです。
 目の前の仕事というのは、やらなければ避けられない現実ですが、今店に行きたいというのは、概念です。

包含は不宿

2008年01月17日 | Weblog
 「正法眼蔵海印三昧」に次ぎのように書かれています。

 「しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。」(注1)

 (包含という言葉の意味は、強いて固執しないということであり、包含とは強いて停滞させないことである。)(注2)
 
 「正法眼蔵」の、この著にあらず、不宿という語を見て、‘流れ’を思い浮かべました。人間関係にあてはめて考えてみますと、相手を包含するということは‘流れ’である、といっているようにみえます。‘流れ’とは、壊しては再構築、壊しては再構築です。では、何を基準に再構築するのかといえば、‘法’だと思います。‘法’から離れている人とは距離感のとった関係を再構築し、‘法’に近い人とは距離感の短い関係を再構築するということです。‘法’と一致している人のそばにいると、しあわせな気持になるし、‘法’と離れている人のそばにいると、いやな気持になります。

 自分と相手との‘法’との距離感によって、一瞬一瞬二人の距離感がたえず変化しているのではないでしょうか。その距離感を無理に縮めたり、離したりせず、そこでその距離感を否定せず、自分のやるべきことをやっていくことが、相手を包含することにつながるとも言えるような気がします。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 26頁
注2:同上

2種類のボーッ

2008年01月06日 | Weblog
 私のまわりの人がよく次のようなことを言うのを耳にします。「家でボーッとしていたら、うつになってしまうから外に出て人と関わっていなくてはならない。」と。私はこのことを聞くたびに、何かへんだな、と思っています。
 「正法眼蔵」には、ボーッにも2種類あるといっています。「正法眼蔵海印三昧」に次のように書かれています。

 「不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。」(注1)

(言葉を発しないけれども生気溌剌とした姿で、不活発の状態で押し黙っていることとは訳が違うであろう。)(注2)

 何もしないでボーッとしているのには(不言)には、‘生’のボーッと‘死’のボーッがあるというのです。

 ‘生’のボーッは、言葉は発してないけれども生気溌剌とした姿です。「正法眼蔵」での修証でのボーッはこれです。頭の中がリラックスしていて、力の入っていない状態ですが、無気力とか、ボヤッとしていうのとは違います。何にでも応じられるように、神経は使わないけれども絶えず生き生きしている状態です。変化に応じてさっさっと動けるのです。頭のなかに一切の固定観念がなく、握るのも放すのも自由自在にできる状態です。身心の働きが最も正常に運転されていいる状態でセルフ・コントロール(自己調整)がもっともバランスよく、しかも十全に活動している状態です。
 
 ‘死’のボーッは、不活発の状態で押し黙っていることです。‘死’のボーッには2種類あります。一つ目は、頭の中が緊張していて、あれもしなくてはこれもしなくては、と頭の中でクルクル考えているけれども実際に行動に移せない状態、。二つ目は、楽しいことを探そうと必要以上に楽しいことに固執し、不断に変化している外界や自分の内からの声や感情をボンヤリうかうか見過ごしてしまっていて、ボーッしている状態です。

 まわりの人が、うつになると言っていたボーッは、‘死’のボーッでしょう。何もしないでボーッとしているという外から見たら同じ状態でも、「正法眼蔵」は、生気溌剌と生き生きとしたボーッがあることを教えてくれています。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 11頁
注2:同上 15頁