この世の中には、いやな人は山ほどいます。人工的な紛いものの部分が多い人ほど、いやな人と私は感じます。人工的な紛いものとは自分のアタマの中でつくりだしたもの、自分に都合の良い考え、あるいは不安感からでている考えなどです。
いやな人が山ほどいるなかで、あの人イヤ、あの人イヤ、とつきあわないのも、何かしっくりいきません。
猫をみていると、人工的なものは無視します。先日点のライトが動くのを追って遊ぶおもちゃを買ってきたのですが、うちの猫はまったく興味をしめさないのです。考えてみたらライトの点は、なんぼ追いかけても捕まえられないし、手応えもないし、食べられません。また、テレビに映っている鳥をみても、最初はテレビにとびついたり、テレビの後ろのほうにまわって鳥を探したりしていましたが、それが本物でないとわかると、テレビをみていても無関心です。
私は、人間も猫と同じだと思うんですね。いやな人がいたら、なにかその人がいやなことをしゃべっていても、テレビに映ってる人がしゃべっていることと思えばいいのです。しゃべってる内容でいやと感じることは人工的なものなので、テレビの鳥と思って無視すればいいのです。それに取り合ってしまって、一生懸命テレビにとびついてしまうから、結局耐えられないとなって、相手を拒絶することになってしまいます。
前回書いた「正法眼蔵海印三昧」の言葉、
「包含は著にあらず、包含は不宿なり。」(注1)
の意味は、相手を拒絶しないということは、相手の人工的な部分には著(じゃく)さない、取りあわないと言うことではないでしょうか。そして、いやなものはいやなので距離感はとりつつ、その人の現実の部分までは拒絶しないで包含するということだと思います。
そのためには、本当に自分がひとりで立ってることができないと、相手の人工的な言葉にとびついてしまいます。私は、常に眼前を見ていて感じることからの行動を、人の言葉よりも最優先します。人間は、何もしなくても人工的な言葉にとびつかないことができるとは思いません。やはり坐禅と智慧を探し続けなければ、相手を拒絶することになり、何かしっくりいかないままで過ぎていくでしょう。
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 26頁
いやな人が山ほどいるなかで、あの人イヤ、あの人イヤ、とつきあわないのも、何かしっくりいきません。
猫をみていると、人工的なものは無視します。先日点のライトが動くのを追って遊ぶおもちゃを買ってきたのですが、うちの猫はまったく興味をしめさないのです。考えてみたらライトの点は、なんぼ追いかけても捕まえられないし、手応えもないし、食べられません。また、テレビに映っている鳥をみても、最初はテレビにとびついたり、テレビの後ろのほうにまわって鳥を探したりしていましたが、それが本物でないとわかると、テレビをみていても無関心です。
私は、人間も猫と同じだと思うんですね。いやな人がいたら、なにかその人がいやなことをしゃべっていても、テレビに映ってる人がしゃべっていることと思えばいいのです。しゃべってる内容でいやと感じることは人工的なものなので、テレビの鳥と思って無視すればいいのです。それに取り合ってしまって、一生懸命テレビにとびついてしまうから、結局耐えられないとなって、相手を拒絶することになってしまいます。
前回書いた「正法眼蔵海印三昧」の言葉、
「包含は著にあらず、包含は不宿なり。」(注1)
の意味は、相手を拒絶しないということは、相手の人工的な部分には著(じゃく)さない、取りあわないと言うことではないでしょうか。そして、いやなものはいやなので距離感はとりつつ、その人の現実の部分までは拒絶しないで包含するということだと思います。
そのためには、本当に自分がひとりで立ってることができないと、相手の人工的な言葉にとびついてしまいます。私は、常に眼前を見ていて感じることからの行動を、人の言葉よりも最優先します。人間は、何もしなくても人工的な言葉にとびつかないことができるとは思いません。やはり坐禅と智慧を探し続けなければ、相手を拒絶することになり、何かしっくりいかないままで過ぎていくでしょう。
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 26頁