一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ちからに焦点のこころ

2016年08月24日 | Weblog
 私は最近こころとは一体何なんだろう、と考えています。今まで、なにげなく、こころという言葉はつかってきたけれども、曖昧なままにその言葉をつかってきたような気がします。喜怒哀楽というような感情をなんとなくこころだと思ってたけれども、「私は楽しい。」とか「私は悲しい。」とか感じてすんでしまうような単純なものだろうかと疑問がでてきました。

 そんななかで、これってこころではないか、と気づいたのがあります。それは、仕事がやりたくないこころです。期限付きで何日までに仕事先の人に連絡しなくてはいけない仕事があるのですが、なんとしてもやりたくない。一ヶ月前位にこっちのミスで怒られてしまった件もあってよけいに連絡したくないのです。一日延ばし一日延ばしにして、暗いこころを引きずっていました。

 その自分のこころを観察していて、あることに気がついたのです。こころとは、ちからをもって、はじめてこころというのではないかと。仕事をやりたくないこころというのは、なんとしても、私から仕事から遠ざけさせようとするちからです。仕事先に連絡するのをできないようにするちからです。

 自分の意志では、仕事先に連絡しなくてはいけない、というのはわかっています。でもなにか魔力のような不透明なちからが、意志と裏腹に仕事から目をそむけさせようとするのです。この自分の意志でのコントロール不可能なちからをもっているのが、こころではないかと。

 仕事を嫌がるのとは反対においしいものを食べにいくとか旅行に行くとかは、簡単に行けます。私は、少しでも時間ができると、すぐ蕎麦を食べに行くことを考えてしまいます。でも、こころについて考え始めてから、それを躊躇っています。

 なんで、そういう楽しいことをやるのと、コントロール不可能なこころが関係するのと思うと思いますが、仏教では、顚倒といって、私が楽しいと思っていることが、本当は逆さまの苦しみだというのです。私はそれを苦しみだと知らないで楽しみだと思いこんでいるのだけれども、こころが必ずそこに生じているというのです。コントロール不可能なちからをもつこころが生じるから本当は苦しみだというのです。

 上記の仕事の件でも、何日も前から連絡しなければと朝から晩まで自分に言い聞かせて、やっと約束のギリギリ前に連絡するのに膨大なエネルギーを費やしました。そのあいだなんで私は連絡出来ないんだろうという自己嫌悪のいやな気分も味わいました。そういう気分を考えると、やっぱり蕎麦を食べにいくのはやめようと思ってしまうのです。




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