一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

四隅

2011年01月21日 | Weblog
 部屋でも保たれている部屋とそうでない部屋では、眼にはみえないけれども部屋に入ったときに違いがわかります。寺も掃き清められた庭には凜とした空気感が漂っています。
人間のエネルギーがかけられてぞうきんで拭かれたところやかたずけられた机のうえにはあたたかい人間のエネルギーの空気感があります。反対に廃屋というのは寂しいヒヤッとするような空気感があります。

 あり方、こうあるべきであるあり方が保たれているところには、それなりの空気感があるように私には感じられます。こうあるべきあり方というのは、生まれたときの状態ではないかと思うのです。

 生まれたときは何も持っていません。部屋をきれいにするとさわやかな気分になるというのは、本来何も持ってないところにいるのが気持ちよいと感じるように私はつくられているのかもしれません。何もなくて部屋の四隅がみえていると、部屋のすみからすみまで雑巾かけをしたくなります。掃除機も四隅をかける快感で、身体が自然に動きたくなりますから。

私は、このなにもない部屋を私の本来こうあるべきあり方にたとえることができるような気がするのです。でも私達は反対に、寂しさや虚しさから逃れるために部屋の中にパソコンやCDやDVDを置こうとします。

 なにもない部屋のこうあるべき空気感なんかどこかにいってしまって、パソコンやCDやDVDのようにあきらかに目に見えるものの存在しか自分の関心の対象としなくなります。

 パソコンを部屋に置くということは、情報を自分の対象としているということだから誰かの自分を否定する言葉も自分の部屋にいれることです。CDやDVDを部屋に置くということは、目につく楽しそうなことを常に物色して自分の目にかなう楽しいことは部屋のなかに置くということです。

 自分を否定される言葉を自分のなかにいれてしまえば、そこに怒りや恨みのこころがおきます。あるいは自分をごまかして相手にへつらうということをするかもしれません。楽しいことを自分のなかにいれてしまえば、楽しくないことが入ってくることに対する不安がおこります。そこには四隅がみえているなにもない部屋を雑巾かけしたくなるこころは、消えています。

 私は、仏教は、このパソコンやCDに焦点を合わせるのではなく、逆にこれらを部屋に置かないなにもない部屋であり続けるエネルギーこそに焦点があてられているのではないかと考えはじめています。

 このなにもない部屋を保つ背後には、塵や汚れを掃除している人の手のエネルギーがあります。また、過去の情報や現在の次から次と流れてくる情報も必要なものと必要でないもの、また必要なものには優先順位をつけて蔵のようなみえない部分にストックしておき、必要に応じていつでも取り出せるようなエネルギーが背後にあります。なにもない部屋を維持しているエネルギーがかもしだす空気感こそが、私が一番の基準にするものではないかと考えはじめています。その部屋のもつ、透明感、あたたかさ、凜とした感じが私をひきつけてやみません。