一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(眼と眼根)

2019年02月27日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 花びらが一点にシューッと束ねられているのを見るとスッキリするのに関連して反対論者の次の文に目がとまりました。『中論』(「眼等なる根を考察すること」と名づけられる第三の章)の第一げに次のように書かれています。

 「眼・耳・鼻・舌・身・意という、六つの根力が存在する。これらにおいては、色・声・香・味・触・法の六つの境が存在する。」

 ここで眼等が存在するといってないで、眼根等が存在するといっていることに興味がわきました。眼を眼根ととらえることに、花びらが一点にシューッと束ねられているのに関連すると思ったのです。

 上記の根眼の根は習慣力をあらわしています。水野弘元氏の『仏教用語の基礎知識』に次のように書かれています。

 「善悪の行為はそのまま消滅するものでなく、かならずその習慣力を心内に残すこと。経験のたびごとに蓄積される習慣力はわれわれの記憶・知能・性格・偏見などとなって心の奥に存在し、それがわれわれの認識判断や行為に対して大きな影響力を及ぼしている。この習慣力を無視ししては業報説も日常経験も正しく説明することはできない。」

 たとえば、私はパソコンを開くと目をひく記事があります。そうすると面白そうな記事をついクリックしてしまいます。そして最後はだいたいむだな時間を費やしてしまったと後悔します。これからは止めようとその時は思うのですがまた次にも同じようなことをやります。

 潜在力なのですね。意志の力では制御できない心の深いところに潜在的な力として残ってしまっていて自分の意志とは関係なく私を動かしています。

 潜在力は今ここで本来見るべきものを見てないで別のものを見たために浪費したエネルギーが残ることによっておこります。だから本来見たいものを見れるようになるためには、自分の意志でどうにかしようとするのではなくエネルギーに焦点をあてて静かな時間をもって浪費したエネルギーをもとに戻すようにすることのほうが大切なのです。

 眼でとらえたものはただ網膜に映ったもので、ただ目の前にこういうものがあるなの認識だけで終わりなのですが、眼根でとらえたものは習慣力という誤ったエネルギーが目の前にあるものを見させているので修行してこの誤ったエネルギーを消し本来見るべきものを見れるようにしていきます。

 見ることを単に眼としないで眼根とすることは、本来今ここで見るべきものを見るという一点の目的があることで見るものをシューッと一つに束ねることができると思うのですが。