一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

焦点

2012年10月28日 | Weblog
 猫の何かを見ているときの眼というのは、パシッとしています。中途半端な眼はしていません。虫眼鏡で焦点を合わせたときのように一点に絞られています。それに比べて人間は、焦点がぼけボヤーッとしている円のようにあれもこれもと広がっていて一点に絞られていません。

 人間が焦点が定まらずボヤーッとなにかを見ているときの眼というのは、インターネットでただ興味のありそうな記事をだらだら見ているときの眼のようです。見始めるととまらなくなっってしまい、一つのものを見ても、もの足りず、次から次へと見続け、そうして最後に時間を無駄に費やしたような虚しさだけが残ります。

 虫眼鏡で焦点を合わせたときのような一点に絞られている猫の眼と、いつも焦点がふにゃふにゃしている人間の眼とでは、違いがあります。

 パシッと私の目をみてくれてる猫の眼には、怒りや恨みやへつらいや不信感はみることができません。100%私のことを余計なものが入り込むすきまのない眼でみていてくれています。

 それに比べて人間の眼には、表面上はごまかしていても、むさぼりのはしたなさや自分の思い通りに動いてくれない怒りや無智からくる淀んだ濁りみたいなものがあり、猫の眼をみているようなしあわせ感というものは感じられません。

 仏教では、人間の眼を見て感じるそれらの不快感を煩悩・随煩悩の心所(心のはたらき)として分類しました。それらは具体的に以下の如くです。

 「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・無慚・無愧・掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知」

 では、どうしたら猫の眼のように焦点を一点に絞られるのか。焦点を一点に絞るというのは、想像しただけでもすごくエネルギーが必要な気がします。何かをジーッ見つめる、ジーッと沈黙を守るというのは、エネルギーが必要です。虫眼鏡でも、一点に焦点を絞ってエネルギーを集めるとそこから煙がでてきますから。

 だから、猫の眼のように焦点を一点に絞るにはエネルギーが必要なので、自己の精神的エネルギーを外界に放出することなく、自己の内部にとどめておかなければいけません。そのために修行をするような気がします。ちなみに、一点に焦点の定まった眼のことを仏教では無分別智といいます。そして、無分別智がすべての煩悩を焼き尽くすと言われています。虫眼鏡で焦点をある一点に絞ると煙がでるというのと似てるかなと、ふと今思ったりしました。