一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「ゼロ」

2015年08月17日 | Weblog
「ゼロ」

  紀元2世紀頃龍樹によって書かれた論書『中論』に、「縁起」が、論における〈言い表されるべき意味内容である〉と書かれています。『中論』は仏教の教義の真髄が書かれているといわれてますので、「縁起」は仏教の教義の主な柱であることは疑う余地がありません。

 「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

 これでわかるように、「縁起」は必ず二つでセットです。

 この二つのセットと一つではどういう差があるのか。そこの差に仏教でいってる教義の面白さが凝縮されてるような気がして、その差を自分なりに整理して書いてみたくなりました。「縁起」の考え方で、面白さが凝縮されていると私が思うのは、「ゼロ」のとらえ方です。温度計で0度といっても、摂氏0度と絶対温度の0度では同じ0度でも基準が違います。それと同じように一つだけで物事を捉える「ゼロ」と仏教でいっている縁起の二つセットの「ゼロ」では基準がまったく違います。

  一つだけで物事を考える「ゼロ」のとらえ方は、何もないことです。「有」の反対の「無」です。だから、自分自身の体がある、身につけている服、呼吸で吸い込む空気、外にひろがる大地、空にうかぶくも、そして輝く太陽・・・・・。これらを「有」ととらえ、世界は、このように「有」であふれていると考えます。そして、それらが無いことが「無」「ゼロ」と捉えます。

 それでは、「縁起」の物事を二つセットで捉える「ゼロ」は、どういうことなのでしょうか。それに関係する文が、福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』のなかに次のような文章です。

「自己タンパク質の内部には、自己の情報が蓄えられている。生命現象という秩序を保つための情報がそこにある。しかい、宇宙の大原則であるエントロピー増大の法則は、情け容赦なくその秩序を、その情報をなきものにしようと触手を伸ばしている。タンパク質は、絶えず酸化され、変性され、分解されようとしている。細胞は必死になって、その魔の手に先回りしようとしているのだ。先回りして、エントロピー増大の法則が秩序を破壊する前に、エネルギーを駆使してまで自ら率先して自らを破壊する。その上ですぐにタンパク質を再合成し、秩序を再構築する。」

 そもそも私たちが「ゼロ」である基準は、再構築した時点・一刹那前と同じ状態になってはじめて「ゼロ」となります。もとに戻っただけだからプラスマイナス0です。

 見た目には何も変化があるようにはみえませんが、「縁起」の「ゼロ」には酸化で自分の秩序・情報を壊されないために自らを破壊して、その上でまた再構築するというエネルギーをかくしもっているのです。ですから、「縁起」の「ゼロ」にはかならずエネルギーがかくしもたれています。

 一つだけで捉える「ゼロ」は、エネルギー=はたらきがない「ゼロ」です。だから「ゼロ」といえば、何もないもの、虚しいもの、退屈なものとして、そのうえに楽しいことや刺激的なものをくっつけようとします。

 「縁起」の二つセットの「ゼロ」はエネルギー=はたらきをかくしもっています。お釈迦さまはエネルギーをかくしもっている「ゼロ」の場合どのように「ゼロ」をつくればいいか考えました。そして私たちの存在は流れであることに気がついたのです。私たちの生命のあり方は刹那刹那自らを壊して再構築しています。一時たりともじっと止まっていません。ですから生物の存在は流れなのです。エネルギーがあるということは流れていることです。ですからお釈迦さまは、二つセットの一つ一つの流れを同じ速さにすればお互いの存在に気がつかないということでその状態を「ゼロ」としたのです。

 もし私が電車にのってるとき電車の動く速度とその外の景色の動く速度が同じであれば私は動いてないと思います。流れが止まってはたらき無くなった状態を「ゼロ」とするのではなく、二つの流れを同じ速度にすることで「ゼロ」としたのです。

 それではエネルギーをかくしもっている「ゼロ」のそれぞれの流れが同じ速さで流れている「ゼロ」の状態とはどういうものと仏教論書のなかに書かれているかというと、『中論』の注釈書の『プラサンナパダー』に次のように書かれています。

 「一切もろもろの戯論が寂滅することと吉祥とを特質とする涅槃が論における著述の必要性であると指ししめされている。」

 言葉が無くなり、煩悩がなくなることが「縁起」の目的だと書かれています。エネルギーをかくしもっている「ゼロ」では言葉が無くなるというのです。

  言葉というのはエネルギー=はたらきが関係ありません。眠ろうと自分に言い聞かせても眠れるわけではないし、熱いといっても触って熱いわけではありません。そのはたらきの無いものを組み合わせて自分のこころの退屈さを紛らわそうとするのが言葉です。だからエネルギーをかくしもっている「ゼロ」の状態というのは言葉の無い世界です。言葉のない世界だから煩悩はなくなっても虚しい退屈な世界なのではと思いますが、でもエネルギーをかくしもっているのです。エネルギーというとただがむしゃらに動くことのようにイメージしていまいますが情報を集めてその中で一番適切なものを選ぶというのもエネルギーのはたらきです。エネルギーが高いとそれだけ多くの情報を集めて繊細なものを選び出すということです。だから繊細なこころの流れを感じて退屈ということはありません。エネルギーをかくしもっている「ゼロ」というのはダイナミックでエキサイティングなものです。

 私たちの生きている状態はエネルギーをかくしもっている状態です。だから私たちの生きている状態に照らし合わせてみれば、お釈迦さんの悟られた二つセットで「ゼロ」をつくりだす方法しかないのかもしれません。