一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(RNAメッセンジャー)

2009年12月20日 | Weblog
 猫がジーッとしているときの視線はどこか部分に視点をあわせているのではなく、坐禅をしているときの視線のようにどこかに視線をあわせていません。

 私は今唯識学の勉強をしているのですが、「唯識二十論」では『いかなる外界の対象物も存在しない。これらはすべて心が作り出したもの、心において顕現したものであるとします。』といっています。最初も今もこれがなにを言っているのかよくわかりませんが、猫のジーッとしているときの視線をみると、外界の対象物はみていないのです。ではなにをとらえているのでしょうか。

 猫が外界の対象物をみてないで、なにをみてるんだろうと考えてたときヒントを与えてくれたのが、タンパク質がアミノ酸から合成されるテレビの番組でした。

 アミノ酸からタンパク質はできるといいますが、アミノ酸が隣どおしにあってもなにも起こらないのです。RNAメッセンジャーが情報にかかれたアミノ酸をつれてタンパク質合成装置のリボソームへ連れていく。そうするとそこでタンパク質が合成される。

 これを見る限りアミノ酸に息吹きを吹き込んでタンパク質に変えるのは、RNAメッセンジャーです。

 猫がみているのは、このRNAメッセンジャーではないのでしょうか。

 RNAメッセンジャーがつれてきたものだけに生命の息吹がふきこまれるのではないでしょうか。

 RNAメッセンジャーが連れてくるのは、感覚的な快楽、のことではなく、煩悩という苦しみから解放してくれるもののはずであり、自我に対するむさぼり、愛着等々からの解放してくれるもののはずです。

 生命の息吹のふきこまれていないアミノ酸に視点をあわせるのではなく、RNAメッセンジャーに焦点をあわせることが洗練された生き方ではないかと猫が教えてくれています。

究極の洗練された生き方(遊んだ。楽しかった。)

2009年12月10日 | Weblog
 人びとは心に大きな空白をかかえつつも、やむを得ず時流に押し流されて、日々を消していくのみとなってきています。人間として生まれながら、人生の確固とした目的も考えず、人間としての生き方の根本を問おうともせず、見えないなにものかに追い立てられるようにして、どこかどんよりと毎日をやり過ごしていく、そんな気がしてなりません。その一方で、この社会がどこへ漂着するのかも不明な不安、自己はどこへたどりつけばよいのかわからない苦しみを、みんなそれぞれ、人知れず抱えているのが実情でしょう。

 この私を、繭のように閉じ込める幾重もの幻想の中のまどろみから目覚めさせて、本来の自己、真実の自己を、問い、求めるべきではないでしょうか。

 人々は力強くて、繊細で、多彩で、創造的な生命の真実に出会いたいのです。

 上記は竹村牧男氏の「知の体系」佼成出版社 に書かれていた言葉です。

 私たちは ヴァーチャルリアリティーの世界のなかにいるんだということでしょうか。

 私はこのヴァーチャルリアリティーとはどういうこのなのか猫の寂静と比べて考えてみました。猫が寂静なのは、虚構や幻想には反応しないからではないかと思ったからです。

 猫をみていると、「もの」をみていても、「もの」を自分から選択しようとは思ってません。

 自分から選択しようとは思ってないから、こころをまったくつかってない。こころをまったくつかわないから目の前にあるものは対象にはなりません。

 対象にならないから、「もの」は幻想にすぎない、となります。

 猫の行動の基準は智慧です。智慧で身体が自然に動くようです。

 猫をみていると、ものすごく潔いのです。これが「もの」をみて、こころを労して自分から選択しようとしていたら、もっと躊躇さがありそうなのですが、躊躇さはまったくありません。躊躇さがないということは、自分が選んでいるのではない、自然にわきでる智慧だと思うのです。

 私は「遊んだ。楽しかった。」といって死ねるように、幻想で右往左往させられるのではなく、もっと潔い人生を遊んでみたいと思います。