猫がジーッとしているときの視線はどこか部分に視点をあわせているのではなく、坐禅をしているときの視線のようにどこかに視線をあわせていません。
私は今唯識学の勉強をしているのですが、「唯識二十論」では『いかなる外界の対象物も存在しない。これらはすべて心が作り出したもの、心において顕現したものであるとします。』といっています。最初も今もこれがなにを言っているのかよくわかりませんが、猫のジーッとしているときの視線をみると、外界の対象物はみていないのです。ではなにをとらえているのでしょうか。
猫が外界の対象物をみてないで、なにをみてるんだろうと考えてたときヒントを与えてくれたのが、タンパク質がアミノ酸から合成されるテレビの番組でした。
アミノ酸からタンパク質はできるといいますが、アミノ酸が隣どおしにあってもなにも起こらないのです。RNAメッセンジャーが情報にかかれたアミノ酸をつれてタンパク質合成装置のリボソームへ連れていく。そうするとそこでタンパク質が合成される。
これを見る限りアミノ酸に息吹きを吹き込んでタンパク質に変えるのは、RNAメッセンジャーです。
猫がみているのは、このRNAメッセンジャーではないのでしょうか。
RNAメッセンジャーがつれてきたものだけに生命の息吹がふきこまれるのではないでしょうか。
RNAメッセンジャーが連れてくるのは、感覚的な快楽、のことではなく、煩悩という苦しみから解放してくれるもののはずであり、自我に対するむさぼり、愛着等々からの解放してくれるもののはずです。
生命の息吹のふきこまれていないアミノ酸に視点をあわせるのではなく、RNAメッセンジャーに焦点をあわせることが洗練された生き方ではないかと猫が教えてくれています。
私は今唯識学の勉強をしているのですが、「唯識二十論」では『いかなる外界の対象物も存在しない。これらはすべて心が作り出したもの、心において顕現したものであるとします。』といっています。最初も今もこれがなにを言っているのかよくわかりませんが、猫のジーッとしているときの視線をみると、外界の対象物はみていないのです。ではなにをとらえているのでしょうか。
猫が外界の対象物をみてないで、なにをみてるんだろうと考えてたときヒントを与えてくれたのが、タンパク質がアミノ酸から合成されるテレビの番組でした。
アミノ酸からタンパク質はできるといいますが、アミノ酸が隣どおしにあってもなにも起こらないのです。RNAメッセンジャーが情報にかかれたアミノ酸をつれてタンパク質合成装置のリボソームへ連れていく。そうするとそこでタンパク質が合成される。
これを見る限りアミノ酸に息吹きを吹き込んでタンパク質に変えるのは、RNAメッセンジャーです。
猫がみているのは、このRNAメッセンジャーではないのでしょうか。
RNAメッセンジャーがつれてきたものだけに生命の息吹がふきこまれるのではないでしょうか。
RNAメッセンジャーが連れてくるのは、感覚的な快楽、のことではなく、煩悩という苦しみから解放してくれるもののはずであり、自我に対するむさぼり、愛着等々からの解放してくれるもののはずです。
生命の息吹のふきこまれていないアミノ酸に視点をあわせるのではなく、RNAメッセンジャーに焦点をあわせることが洗練された生き方ではないかと猫が教えてくれています。