私は150年から250年に書かれた『中論』での煩悩の原因と、現在の2009年に書かれた福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』でのガンの原因とがあまりにも似ていることに驚いています。
150年から250年 に書かれた『中論』のなかで、
煩悩が起こる原因が、‘非如理なる作意'である、と書かれています。
また、2009年に福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』に、
ガンの起こる原因は、‘レセプターで受け取った情報を受け取り次の組織に伝達するタンパク質がRASで、そのRASが過剰なる情報を次のタンパク質に流していること’と書かれています。
『中論』でいっている‘非如理なる作意’の作意というのは、私たちが何を見るのか、見るものに心を向けさせる心の働きです。それが非如理だということは、本来見るべきものに心を向けさせてないはたらきだということです。
なぜ、本来見るべきものに心をむけてないかというと、私たちが何かを見て感じる苦楽が逆さまのとらえ方をしているからだと『中論』には書いてあります。本当は私たちにとって苦であるのに楽ととらえて心を向けてしまう。また逆に、楽なのに苦だと捉えて心を向けてしまう。
楽ととらえるか苦ととらえるか主体的な問題なので、本人が楽しいといえば楽しいとなってそれでいいのではないか、となりますが、それで済む問題なのでしょうか。『唯識三十頌』に次のように書かれています。
「貪は、 有(生存)と享楽とに対する耽著と希願。これは、又、苦を生ずるを業となすもの。」享楽に心をむければ、苦を生ずるを業となす、となっています。
また『世界は分けてもわからない』でいっている‘Rasがレセプターから過剰なる情報を受け取ること’の過剰なる情報というのも、本当は苦であるのに、思いに騙されて楽だ、楽しいことだ、と本当は受け取ってはいけない情報を受け取り次ぎに流してしまうことです。
仏教の四法印の一つに「一切皆苦」とあるので、仏教的にいえば一切諸法は苦です。
前回のブログでも書きましたように、仏教は内面的なこころを観つめて観つめてできあがったものです。今見ているものは、本当に自分を苦から解放するものを見ているのだろうか、と、後になって虚しさを感じることがないだろうかと、もっと内面のこころを観つめていくことを仏教は教えてくれています。。
150年から250年 に書かれた『中論』のなかで、
煩悩が起こる原因が、‘非如理なる作意'である、と書かれています。
また、2009年に福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』に、
ガンの起こる原因は、‘レセプターで受け取った情報を受け取り次の組織に伝達するタンパク質がRASで、そのRASが過剰なる情報を次のタンパク質に流していること’と書かれています。
『中論』でいっている‘非如理なる作意’の作意というのは、私たちが何を見るのか、見るものに心を向けさせる心の働きです。それが非如理だということは、本来見るべきものに心を向けさせてないはたらきだということです。
なぜ、本来見るべきものに心をむけてないかというと、私たちが何かを見て感じる苦楽が逆さまのとらえ方をしているからだと『中論』には書いてあります。本当は私たちにとって苦であるのに楽ととらえて心を向けてしまう。また逆に、楽なのに苦だと捉えて心を向けてしまう。
楽ととらえるか苦ととらえるか主体的な問題なので、本人が楽しいといえば楽しいとなってそれでいいのではないか、となりますが、それで済む問題なのでしょうか。『唯識三十頌』に次のように書かれています。
「貪は、 有(生存)と享楽とに対する耽著と希願。これは、又、苦を生ずるを業となすもの。」享楽に心をむければ、苦を生ずるを業となす、となっています。
また『世界は分けてもわからない』でいっている‘Rasがレセプターから過剰なる情報を受け取ること’の過剰なる情報というのも、本当は苦であるのに、思いに騙されて楽だ、楽しいことだ、と本当は受け取ってはいけない情報を受け取り次ぎに流してしまうことです。
仏教の四法印の一つに「一切皆苦」とあるので、仏教的にいえば一切諸法は苦です。
前回のブログでも書きましたように、仏教は内面的なこころを観つめて観つめてできあがったものです。今見ているものは、本当に自分を苦から解放するものを見ているのだろうか、と、後になって虚しさを感じることがないだろうかと、もっと内面のこころを観つめていくことを仏教は教えてくれています。。