一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(ほんわりあたたか)

2010年02月23日 | Weblog
 仏教は、ほんわりあたたかです。

 たとえ片思いをしていても、その人のことを思うとほんわり
あたたかな気持ちになる。部屋でひとりで孤独なんだけれども
ほんわりあたたかい気持ちでいられる。単調な日常生活なんだ
けれどもほんわりあたたかい気持ちで生活できる。

 このほんわりあたたかは、あたまでコントロールしてでてく
るものではありません。あたまで片思いのあの人のことを忘れ
ようと、相手の欠点をあげて嫌いになろうとしたり、自分がほ
 かに気をそらそうとしても、ほんわりあたたかはでてきませ
ん。

 このあたまでコントロールしていることが、業(ごう)のエ
ネルギーをつくりだしています。業(ごう)のエネルギーとい
うのは負のエネルギーで、私たちの世界を修羅道のようにも見
せ、畜生道のようにも見せ、地獄道にも見せます。

 もし片思いをしていても、なんとしてでもあの人を自分のほ
うを振り向かせたい自分を好きといって欲しいとなれば、胸の
はりさけんばかりの渇望のとりこになり、もう修羅の世界の苦
しみを味わいます。

 片思いという同じスタンスのなかで、かたやどんなことをし
てでも手に入れたいという修羅の世界、かたや自分のほうを振
り向かなくてもその人を思うだけでほんわりあたたかな気持ち
でいられる涅槃の世界、と片思いしている人のこころ次第で修
羅にも涅槃にも変わります。

 業(ごう)のエネルギーのなかにいる限りほんわりあたたか
はでてきません。業(ごう)のエネルギーというのは、瞬間瞬
間を滅することができなかったものがエネルギーになっている
からです。だから落ち切れてない汚れみたいなものだからほん
わりあたたかがでてくるはずがありません。

 最後いきつくところは理屈じゃないと思います。ああしたか
ら、こうしたからというのではなく、なぜかわからないけれど
も、その人のことを思うとほんわりあたたかな気持ちになって
いたになると思います。

 なぜかわからないけれども、あの人のそばにいるとほんわり
あたたかい。なぜかわからないけれども、日常生活を滞りなく
まわせる。

 坐禅の世界は、ほんわりあたたかです。


究極の洗練された生き方(朝宗)

2010年02月09日 | Weblog
 私は最近「エネルギー」という言葉にものすごい関心をもっています。

 辞書で「エネルギー」をひくと、(物体が持っている、仕事をする能力の量。仕事などをするのに必要な心身の元気、精力。)となっています。

 私たちが生きるのに本当に必要なものは、この物体が持っている、仕事をする能力の量のエネルギーではないかと思っています。


 「正法眼蔵 海印三昧」に次のような言葉があります。

『従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面々なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。』(註)
(これまで坐禅して仏祖を実現したが、それも自己の正体である海印三昧の中への流入である。朝宗は川が大海に流れこむこと。)

 自己の正体は大海の一部で坐禅は大海へ流れこむことであると書かれています。大海とは宇宙エネルギーと読み替えることもできるでしょう。

 私たちが大海に流れ込むためには、流れてなければならないのです。

 流れるためには、今あるものを手放さなければ新しいものが入ってきません。

 「流れる」と「手放す」は同じことではないでしょうか。

 だから私のもっている仕事をする能力の量のエネルギーを維持するためには、今あるものを手放して新しいエネルギーを流れ入れさせてあげなければいけない。

 周りの人からよく聞くことがあります。

 「お正月には温泉に行くとか、楽しいことを予定しないとやってられないよね。」

 馬が鼻の先にニンジンをぶらさげて走らされるように、何かをするエネルギー源がニンジンという目的(有所得)になります。

 目的がエネルギー源になるというのは、上記の「正法眼蔵 海印三昧」を見る限りそのエネルギーはその人のほんもののエネルギーではないことになります。

 逆に、その目的にしがみついていれば、大海のエネルギーは流れ込んでこないことになります。

 猫を見るとすべてを「手放す」してひなたぼっこをしています。大海のエネルギーを充電させているのでしょう。とてもほほえましい光景です。

 
註:「正法眼蔵(一)」道元 著 水野弥穂子 校注 岩波文庫