一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』の帰敬偈の戯論)

2019年11月25日 | Weblog
  ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の帰敬偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。


 「不生亦不滅 不断亦不常
 不一亦不異 不来亦不出
 (不生にして亦た不滅 不常にして亦た不断
  不一にして亦た不異 不来にして亦た不出なる)
 能くこの因縁を説き 善く諸々の戯論を滅す
 我稽主して礼す 仏を諸説中第一なりと」

このなかで龍樹は(戯論)を滅するためにこの『中論』を説くといっています。

では、(戯論)とは何かと調べると、戯論と訳された原語のサンスクリット語では、prapancaとなっています。それを辞書でひくと、現われる、現わす、広がる、多様性、となっています。あらゆる思惟・定義・論述は言葉によりながら、本来ことばは多元性をふくんで一種の虚構をはらんでおり、そのような「ことばに不可避の虚構」を用いてなおそのことばをつらねて行く論議を「戯論」という、と注には書かれています。

 上記でも書いたように戯論のサンスクリット語の訳に「広がる」とでてきます。戯論はことばにより広がることということもできるでしょう。とすると、私が潔さとか簡潔さを連想させられる花びらが束ねられている一点に感じる心地よさと、戯論のことばの広がりは、束ねると広がるで正反対のもので相反するものになります。

 このことばの広がりに関連して次のようなことを思い浮かびました。私は寝不足とかで疲れているときは、言わなくてもいいことを言って墓穴を掘っています。口が勝手にすべって余計なことを言ってしまうのです。人の悪口はなるべく言いたくないのですが、疲れているときはつい相手が誰かの悪口を言いだすと、そうだよね、そうだよね、と乗せられてしまうのです。

 最近ときどき(フルマインド)ということばをみますが、エネルギーが充実しているときはフルマインドで適確な会話や行動ができるらしいのですが、そのこころがネルギー不足になると、いろいろが障りが生じるらしいのです。

 この言わなくてもいいことまで言って墓穴をほっているというのは、こころがエネルギー不足でフルマインドでなくなっていてポワーとだらしなく広がっている状態なのだからではないかと思っています。

 ことばというのは広がる一方です。ことばにことばをつらねていく議論が(戯論)だと言われています。わたしはことばで成り立っているこの世界のなかで、こころのだらしない広がりに対抗するこころを束ねる一点をもたなくてはいけないような気がするのです。

 

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