一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(猫はジーッとしている)

2009年11月19日 | Weblog
 猫は何もないときはジーッとしています。その姿を見るたびに気高さを感じることさえあります。私は猫のその姿の気高さはどこからくるのかはっきりわかりませんでした。

 猫がジーッとしているのは、生命現象の本質をみすえているからこそ気高さを感じるのではないかと気がついたのです。

  猫がジーッとしてとらえているのは、エネルギーと情報ではないかと思ったのです。情報というのは猫の身体のなかにある気の遠くなるような年月をかけて陶太されて残った情報です。

 猫がエネルギーと情報以外のもので動いているとしたら、猫がジーッとしているわけはないのです。

 何か楽しいこと基準でうごいていたら、ジーッとなんかしてないで楽しいことを探してうろうろしているはずです。視点が定まらずきょときょとしているはずなのです。猫がジーッとしているときの視線はどこか部分に視点をあわせているのではなく、部分以上のなにかもっと根源的なものをみているようです、。

 福岡伸一氏の「世界は分けてもわからない」に次のような言葉がありました。

『実在しているのは、たった一個の受精卵から出発した細胞の連続的なバリエーションだけである。そしてそのあいだには、絶え間のない分子の交換、エネルギーの交換、そして情報の交換がある。つまりここで存在と呼べるものは、部分という物質そのものではなく、動的な平衡とその効果でしかない。』

 ここで福岡氏が言っていることは私たちの身体のことですが、たった一個の受精卵をたった一個の銀河系宇宙エネルギーと置き換えても同じことがいえると思います。

 猫は宇宙エネルギーとエネルギーの交換、そして情報の交換の流れというものがきちんと見えていて、その流れ以外のものには目をむけていないではないでしょうか。

 私は洗練された生き方というのは猫のジーッとしている目ではないかと思っているのです。

「空(くう)」に余れるもの

2009年11月11日 | Weblog
 猫が台所でおいしいニオイがしたら台所に来ます。猫を動かしたのはニオイだとずっと思ってました。でも最近ふと気がついたのです。動かしたのはニオイではなく、ニオイに反応するエネルギーではないかと。

 同じニオイがしても、もし危険があるような場合、たとえば知らない人がいるようなときは、ニオイのするほうには猫は来ない。

 それは、猫をつくっている情報のなかでそのシチュエーションではニオイに反応するエネルギーは反応しないからです。

 私たちは外界の対象の眼や耳や鼻や舌などで感じたものにランダムに反応して動いてますが、本来そんなにランダムに反応するものなのでしょうか。

 私たちは眼や耳や鼻や舌などで感じたものを全部ほんものだと思ってますが、今このシチュエーションでその感覚器官に反応するエネルギーがでてこない場合はそれはほんものではないと思うのです。