一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(受想行識亦復如是3)

2008年09月29日 | Weblog
「受想行識」はまた「流れ」です。

 「流れ」とは、見えているものは同じ形であるようにみえますが、かたち作られた瞬間に壊され、次ぎの瞬間にはまったく新しいものに入れ替わっているということです。だからつかもうとしてももう壊されてしまっているのでつかまえることができないのです。

 「受想行識」は「流れ」であるので、なにか好きなものだけをつかまえようと身構えて緊張状態より、どんな変化にも応じられるように、変化に応じてさっさっと動ける状態が私たちの本来の身心です。頭のなかに固定観念がなくリラックスしていて、力の入ってない状態です。要するに、壊して再構築できる状態です。

 私は前に「日だまりの猫」になりたいと書きましたが、「日だまりの猫」になれるのは猫には好きなものだけをつかまえようと身構えていないことに気がつきました。自分の嫌いなことでも避けて通れないものなら受けて立つぞ、みたいなオーラが猫にはあって、その嫌いなことを受けて立つ自信があるから、どんなときでもリラックスしてることが「日だまりの猫」になれるのだということに気がつきました。。まあ猫にはそんなたいそうなことを自分に言い聞かせてやっているのではなく、体が勝手に動いて自分でも無意識にやっているんでしょうけれども。

 人間は頭がついているので普通にしていたら、やはり嫌なものはどんなことをしてでも避けて通りたいとなるのは当たり前のはなしです。ですから変化に応じて避けて通れないものなら受けて立つぞオーラがあって、かつオーラがありつつ身心に力がはいってない状態をつくりだせるのは「行」しかないわけです。


般若心経(受想行識亦復如是2)

2008年09月25日 | Weblog
 前回のブログで「受想行識」も「空」であり、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立していると書きました。

 私はこのことを猫に教えてもらっています。猫は個々に焦点をあてるのではなく、目の前の世界を全体でとらえています。たとえば、どんなに楽しくねこじゃらしで遊んでいても、少しでも変な音がすればパッと基本姿勢に体勢を直します。猫じゃらしだけをみているのではなく全体を体で感じています。

 「正法眼蔵 弁道話」に次のように書かれています。

「群生のとこしなえにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらわれず」(注1)

 (一切の生物が自分を受けとり使い切っているとき、狭い視野でものを見てない。無限大のひろさの世界にすんでいるわけだから、その無限大の大きさで物事に対処している。)(注3)

 自然界のものには、もともとこのあらゆるものと関係し合っている全体をとらえて、その関係によって今一番何をすべきか、何を言ったらいいのか、どのくらい食べたらいいのか寝たらいいのかと、頭をつかわなくてもわかる能力が備わっているのだと思います。それを全体でみないで個々に区切ってみるから、全体が消えてしまって自分が何をしたらいいのかわからなくなってしまってしまっているようです。

 人間が本来何の造作をしなくても、自分のしゃべりたいことが自然に口からでてくることが「正法眼蔵 弁道話」に次ぎのように書かれています。

 「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくにちみつ、縦横きはまりなし。」(注2)

 (自分自身を捕まえて、自分自身をつかいこなす境地というのは、坐禅を実際にやってみなければ発現してこないし、体験しなければ自分のものにならない。うまいことしゃべろうとしないで造作を放せば、そういう境地が手の平に一杯になり、自分のしゃべりたいことが自然に口からでてくる。)(注4)

 私たちも含めて自然界の「受想行識」は自分で作るのではなく、あらゆるものとの関係において決まるので、つかもうとするのを放し、手のなかに満ちてくるのを待つことに鍵がありそうです。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻」金沢文庫 11頁
注2:同上
注3:同上 13頁参照
注4:同上

般若心経(受想行識亦復如是1)

2008年09月23日 | Weblog
 「受想行識」は「色」を加えて五蘊と呼ばれ,われわれが住んでいる世界を五つの集合体として理解する考え方があります。われわれが生きているこの宇宙を、単に物質だけの存在として考えるのではなく、目の前のものを見て私たちがどう感じどう行動しその行動によってどういう心が形成させるかということまで世界に存在するものとみなします。

 この人間サイドの「受想行識」も「空」であり「流れ」であるといっています。

 「空」というのは実体がないことにおいて、言いかえると、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立していることです。

 あらゆるものと関係し合う「受想行識」の「空」において一番の問題はあらゆるもののなかに、人工的な紛い物をいれてはいけないということです。思考である言葉もその一つだと思います。このブログだって言葉で書いてるんじゃないか、ということになりますが、だからブログを書いていてもなんか虚しさはつねにあります。言葉にはつねに虚しさがつきまといます。

 「空」になるために、あらゆるもののなかにはいれてはいけない言葉をいれてしまっていて気がつかないのは、自分を情報だと見ていることです。情報が集まったのが価値観です。価値観からでる自分のプライドであったり、価値観にあわないことをやってしまった自責の念であったり、価値観にあわないものに対する説教であったり、価値観に合わせようとする一生懸命であったり、その価値観を自分だと思っていることです。

 「正法眼蔵 弁道話の巻」に次ぎのように書かれています。

「承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。」(注1)

 (現実に合当することができないために、頭の中だけでいろいろなことを考えようとして、そういうことが習慣になっているために、頭の中で考えられたものが実体だと考えて、れを追い求めるところから、本当の真実がどっかに行ってしまって、うかうかと通り過ぎてしまう。そのようにいろいろなことを頭で考えるために、これらのものは全部理屈ではあるが、お互いに議論を重ねて終わるときがない。)(注2)

 「空」になるために、あらゆるもののなかに言葉がはいってないのが、「自然」です。「自然」には言葉がはいっていません。脳細胞ではない、身体全体をつかって行いをしているだけです。

 私は前永平寺禅師 宮崎奕保禅師の次ぎの言葉が自分でも気がつかないで言葉に振りまわされていることをわからせてくれます。

「自然は立派やね。私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから、自然の法則をまねて人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておられたらいいね。」(注3)

 「朝になれば日が昇り、夕方になると日が沈むのと同じで、朝になったらちゃんと起きて、まず坐禅をする。それが当たり前のことで、それを崩すことは、どうにも不自然なんやと思うんや」(注4)

 禅師の言っておられる規則正しい生活は、脳細胞ではない身体全体をつかって自分の納まるべき場所を体中体当たりしていく行いのなかで探っていけば、行き着くのが自然と同じ規則正しい生活になっていくように思えます。

注1:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫 31頁
注2:同上  129頁 参照
注3:石川昌孝「坐禅をすれば善き人となる」講談社 232頁
注4:同上   228頁


般若心経(空即是色)

2008年09月11日 | Weblog
 岩波文庫「般若心経 金剛般若心経」の「空即是色」の註に次ぎのように書かれています。

 「われわれはとしては、実体がないという混沌として主客未分の世界を、唯一のもの、全一なるものとして、実感のうえで掴まなければならない。しかし、そのためには、現象にまず眼を向け、仮に、これを頼りとし手掛かりとして行かなければならない。現象は、実体がないことにおいて、言いかえると、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立しているのであるから、現象を見すえることによって、一切が原因と条件によって関係し合いつつ動いているというこの縁起の世界が体得できるはずである。」(注1)

 現象は、実体がないことにおいて、言いかえると、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立していることが、「空」です。

 自分というものも、実体がなく、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立しています。

 あらゆるものと関係しあうことなく単独で自分というものが成立しているのであれば、現象に眼を向けなくても、これを頼りとし手掛かりとして行かなくてもいいでしょう。この場合は「空即是色」にはなりません。「我思う。ゆえに我あり。」的になるとおもいます。

 でもあらゆるものと関係し合っているのですから、まず現象を見なくてはなりません。
だから「空即是色」です。「自己をはこぶ」ことではなく、「万法に証せられる」ことです。

注:中村 元・紀国一義訳注「般若心経 金剛般若心経」岩波文庫 27~28頁
 

般若心経(色即是空)

2008年09月05日 | Weblog
 「空」になれるための「色」(物質的現象として存在するもの)のとらえ方はどうなっているのでしょうか。

 「色即是空」

 「生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである。」

 私はこの二つが同じことを意味してるとみました。「般若心経」と福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」の言葉です。

 法はさんずいに去ると書きます。水が去る、流れていくということです。「色」(物質的現象として存在するもの)は流れです。

 岩波文庫「般若心経 金剛般若心経」の「色」の注釈が次のようにかかれています。

 「物質的現象として存在するもののこと。『壊れるもの』『変化するもの』絶えず変化して一瞬も常恒でないこと。物質が同時に同じ処を占有できないこと。」(注1)

 流れであるということは、見えているものは同じ形であるようにみえますが、かたち作られた瞬間に壊され、次ぎの瞬間にはまったく新しいものに入れ替わっているということです。だからつかもうとしてももう壊されてしまっているのでつかまえることができないのです。

 「空」は物理的存在は実体として、主体として、自性としては捉えるべきものがないことをいって、これは、動的平衡に相当します。

 岩波文庫「般若心経 金剛般若心経」の「空」の註は、

 「物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性としては捉えるべきものがない。これを空という。」(注2)

 これは福岡伸一「生物と無生物のあいだ」ではジグソーパズルにたとえられて説明されています。 ジズソーパズルにたとえられるということはありとあらゆるものが関係し合って成立しているのであり、全存在が結び合い、連関をなして一つの全体をなしているということに関係していると思います。全体の枠があるから無限大に大きくなったり、小さくなったりしないで平衡がたもたれるのでしょう。宇宙というジグソーパズルの自分を取り囲む八つのピースでできた空間に自分のピースがぴったりとはまった状態が「空」だと書きました。この八つのピースでできた空間の自分と接するところが自分からみた「色」で、その接する形はあらゆるものとの関係において一瞬一瞬かわるということが「空」ではないでしょうか。

 自分と接するところの「色」はあらゆるものとの関係において一瞬一瞬かわる流れであるので、言葉でつかまえることもできないし、感情でつかまえることもできない。ただ、自分に与えられたことを、一生懸命にただ黙々と行うことだけが、流れと一体になれるような気がします。
                       
注1:中村 元・紀国一義訳注「般若心経 金剛般若心経」岩波文庫 21頁参照
注2:同上 同頁参照