一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自らより生ぜず)

2020年02月14日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の観因縁品第一章第三偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。

「諸法は自らより生ぜず 亦た他より生ぜず 共ならず無因ならず 是の故に無生なりと知る」

 この偈のなかの「自らより生ぜず」についてどんなことだろうと考えていると、最近おこったあることが思い浮かびました。

 ここ数日のあいだにいろんな人間関係に変化があって落ち込んだり舞い上がったりしていました。十年くらいあまり変化のない人間関係に変化が起こったのです。去って行く友だちがいたり新しい友だちができたりです。変化があると不安になります。去って行く友だちがいればこの先その友だちなしでやっていけるかと不安になります。関係が親密なほどその友だちなしでやっていけるかと不安になります。新しい出会いはこの先うまくいかなかったらどうしようと不安になります。そんななかこの不安というのは自分で作り出しているのではないかと思ったのです。

 この不安のベースに自分で作り出した安心感があって、私はその安心感のなかでどうにかバランスをとってこころの平常を保って生活できています。でもそのバランスが変化があって崩されると不安になります。愛犬が亡くなったときは、自分も一緒に死にたいほど悲しくてこころの平常を保つどころではなかったし、そんな大きなことではなくても些細な変化に動揺し立ってられないほど自分がちっぽけにみえて落ち込みます。

 そんななかで自ら作り出した安心感に頼らないもっと絶対的な安心感が欲しくなりました。自分無しの世界を知っていて自らなにも作り出さなくてもその世界だけで自分は満たされているんだと知ることではないかと思うのです。

 花びらが束ねられている一点とは、自ら作り出さなくてもいいところ、無為でも安心感があるところだと思うのです。