一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

超越者

2013年04月07日 | Weblog
 何をいったいわれわれは「存在」という言葉でもって指さしているのでしょうか。

 この問いは、宙に浮いた思弁の仕事にとどまるだけなのか。それともこの問いは最も原理的であると同時に最も具体的な問いであるのでしょうか。 

 「存在」の意味を明瞭にしておかず、この明瞭化を自分の基礎課題としておかないときには、根本において盲目であり、すべてが転倒していまってるような気がします。

 ある意味仏教は整理術。自分のこころのなかの整理術です。自分のステージをあげることで、こころの向ける対象を消していきます。いらないものをバッサリ切り捨てて、徐々に大切なものに焦点を合わせ、磨き上げて、洗練されたかたちにしていきます。

 なんで自分のステージをあげることでこころの向ける対象を消していくのか。それは視点が低劣な視点から高い視点へ変化していくので、低い視点のときひっかかっていたものが、高い視点へ移ったときにはどうでもよいものになっていくからです。

 ここで「存在」というものを考えたとき、この優先順位をつける視点が、あらゆる類をこえて、あらゆる時間をこえた超越的なものでなければならないはずです。

 先日我が家の愛猫が16歳で死にました。自然界では生きていけないようなドジな猫で私を100%頼りにしてしていた猫なので、一生のうちでだす涙をほどんどだす位泣きました。生病老死をまざまざと感じました。この世の中のものは必ずなくなります。

 うちの猫は二度と帰ってきません。でも猫は私にこの「存在」の意味を教えていってくれたような気がします。あらゆる類をこえてあらゆる時間をこえた超越的なもの、どんなときでもひっそりと静けさのなかに身をおいてどんな状況でも法を信じて逃げずに自分ですべてを受け止めていた猫の姿を思い浮かべるのです。