一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「一所懸命」

2007年06月30日 | Weblog
 前回のブログを書いた後、「一所懸命」には、「正法眼蔵」的な『いま ここ』での「一所懸命」と、そうでない「一所懸命」とがあることに気が付きました。
 『いま ここ』での「一所懸命」は、『いま ここ』の現実をしっかりととらえることです。前回、自然界で猫が生き残るためには、『いま ここ』に百パーセント心も身もなくてはならない、と書きました。
 「正法眼蔵」的でない“一所懸命”は、アタマでこうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないかと考えて行動する“一所懸命”です。
 私は、「正法眼蔵」を勉強する以前は、この“一所懸命”の権化でした。家事はそこそこにして、パートにでも出て働いて、将来心強いから資格でも取って、時代にも付いて行けるように流行っている本や映画を読んだり観たりもして、そこそこの流行のファッションも身に着けて、カルチャースクールにも通って、スポーツクラブにも行って、...みたいな“一所懸命”でした。
 現在は、『いま ここ』での「一所懸命」です。目の前にあることを淡々とやっています。目の前に汚れた皿がたまっていれば洗う、散らかっていれば掃除する、食べるものがなくなれば食事を作る、花がしおれていれば水をやる、本も読みたければ読む、疲れたら休む、みたいな、現実に即した「一所懸命」です。
 現在の方が、結果的に自分が本当にやりたいことができています。何よりも家庭内が安定して来ました。

『いま ここ』

2007年06月29日 | Weblog
 猫の魅力を一番感じるときは、何と言ってもあの混じりっ気の無い目で見詰めてくれるときです。ごはんをくれと催促するときでも遊んで遊んでと見上げるときでも私が何かをしているのを眺めているときでも目と目が合ったときでも、それぞれの瞬間は百パーセント私と向き合ってくれています。人間だったら相手と向き合っていても、何割かは相手の方でなくて自分の方に向いています。こういう見方をしたら相手に変に思われないかな?とか、一生懸命やると疲れてしまうから少し手を抜いてみようかな、とか相手の裏を読んだり計算したりしています。
 あの混じりっ気の無い目は『いま ここ』に百パーセント心も身体もある目です。相手の裏を読んだり計算したりすることは、『いま ここ』ではありません。『いま ここ』にはそういう余裕は無いはずです。猫が自然界で他からどう見られるか、手を抜こうか、などと考えていたら、敵に殺されてしまいます。
 「正法眼蔵 谿声山色(けいせいさんしき)の巻」に、「桃華ヲ一見シテ自リ後、直ニ如今ニ至リテ疑ハズ」と書かれています。霊雲志勤(れいうんしごん)禅師が真実を求めていろいろな寺院を渡り歩いて一所懸命努力している中、山の麓で一休みしていたときに、目の前に見渡す限り咲き誇っていた桃の花の素晴らしい情景を観て悟った言葉で、今までは、あれこれと先のことを考えたり過去のことを考えたりして、迷いに迷っていたけれども、そういう難しい問題はいいんだ、『いま』を一所懸命やればいいんだ、ということに気が付いた、ということです(注)。
 人間も本来は自然の一部である以上、『いま ここ』にあることが一番自然のような気がします。とにかくあの混じりっ気の無い目を見たらどんなに疲れているときでも心が暖かくなるのは、『いま ここ』が人間にとっても一番自然だからと納得しています。

注:西嶋和夫「正法眼蔵提唱録 第一巻下 二版」金沢文庫202~203頁。

西嶋和夫老師のブログ


「よく遊んだ。楽しかった。」

2007年06月26日 | Weblog
 私は脚本家の木皿泉さんのドラマが大好きです。一昨年放送の『野ブタ。をプロデュース』は私の好きなドラマの一位です。先週が最終回のドラマ『セクシーボイス アンド ロボ』も毎週楽しみに観ていました。その最終回は「よく遊んだ。楽しかった。」と言って成仏できない幽霊が成仏してあの世に帰って行く話でした。またそれを聞いた人もそう言って死にたいからと、違う人生を探しに行くのです。
 私も「よく遊んだ。楽しかった。」と思って死ねたら最高だなと思いました。澤木老師の言葉に『自己が自己を自己で自己する』があります。ドラマのなかでは「自分は自分の味方だよ。」と言っていました。つまり自分というものになりきる。外からのネジで動くのではなく、自分で自分するのです。座禅をするというのは自分の煩悩を押さえつけるためにやるのではなく、本当の自分、宇宙と続いた自分をつかみ自分というものになりきることだと思います。外からのネジで動くのではなく自分の中からの声で生活していくことが自己が自己することではないでしょうか。それができた時に「よく遊んだ。楽しかった。」と言って死ねるのではないでしょうか。
 猫は、「よく遊んだ。楽しかった。」と思うまでもなく常に自分になりきって生きていますから、もっと良い猫生を送れば良かったなんて後悔することはぜったいに無いこと言うまでもありません。

猫は「じーっと」している

2007年06月25日 | Weblog
 猫は、何もない時はじーっとしています。起きていても、目を閉じたまま耳やしっぽをピコピコ動かしながら、じーっとしています。室内飼いの猫は、やるべきことが少ししかありません。ごはんは飼い主がくれるし、風呂は入らなくてもいいし、去勢されているので雌猫を探しにいかなくてもいいから、ほとんどやるべきことはありません。ですから、ほとんどじーっとしています。やるべきことといったら、飼い主にごはんをくれと催促することと、おしっこ・ウンコをすることと、家の中をパトロールすることくらいです。玄関のチャイムが鳴ったものなら猫にとっては一大イベントです。
 人間は、仕事もしなくてはならない、食事も作らなくてはならない、風呂にも入らなくてはならないので、ほとんどじーっとしている時間はありません。が、この「じーっと」に何か大事なものが含まれている気がします。ですので、私は、暇な時は、テレビを観るでもなく本を読むでもなく音楽を聴くでもなく、「じーっと」しています。寂しいなぁ、携帯でもかかってこないかなぁ、と思いながら、静けさを楽しむほどではありませんが、「じーっと」しています。寂しいからといってだれかに電話をしたりすると、後で虚しさを味わうことの方が多いのです。
 「正法眼蔵 八大人覚(はちだいにんがく)」に「楽寂静(らくじゃくじょう)」があります。静かさを楽しむという教えです。この世はもともと寂しくて静かであると言うのです。今の時代は、寂しいと、あ、いけない、楽しい事を探さなくちゃ、みたいな風潮がありますが、私は猫みたいにとことん寂しさの中に自分をおいてみたいと思っています。
 先日テレビで作曲家の武満徹のことを放送していましたが、その中で、「作曲とは、我々を取り巻く世界を貫いている音の河を取り出すようなものである。作曲とは、作るのではなく、聞こえてくる音を取り出すのだ。命や自然を聴くことが大事である。」と言っていました。命や自然の音が聞こえてくるためには、「じーっと」が不可欠のように思えるのです。
 やっぱり、猫が「じーっと」しているのには、何か大事なものが含まれている気がしてなりません。