一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「地獄の番人」

2013年09月12日 | Weblog
 紀元400年頃に書かれた『唯識二十論』に地獄の話がでてきます。地獄の人々は耐えられないような焼けた鉄の大地にあって熱の苦に苦しんでいます。、そこには地獄の番人がいて身の毛もよだつような姿や大きさで地獄の人々を苦しませます。また、人を食う犬やからすもいて、さらにするどい棘の鉄山が迫って来ては去っていったりしている、と書かれています。

 そして、その地獄についてその本のなかで次のように書かれています。

「地獄の番人等は実際には存在しないにも拘わらず、地獄の人々の共通せる各自の業の果報の影響力によるからである。」

 私たちを苦しませている地獄の番人は実際にはいないのに、それらは各自の業の果報によってつくられていると、いっています。

 「業の果報」とは、いったい何をいっているのか?小池龍之介の『「自分」から自由になる沈黙入門』のなかで次のように書かれています。

 「他人に不愉快な本音や気分の悪くなるような意見をぶつけられても、いきなり怒る人は滅多におりませぬけれども、それはあくまでも社会上の礼儀や体裁などのいろいろな条件を気にしているから、にすぎませぬ。
 言い換えると、たまたまそういった条件によって「怒り」が吹き出るのを抑えているとしても、「怒り」のエネルギーは内に蓄積されています。この心のエネルギーとは、仏道で申すところの業(カルマ)。何かの拍子に目盛りを振り切ったときには、怒りの業に駆られた行動が発動いたします。
 溜まった怒りを他者にぶつけて、さらにそれがこちらに跳ね返ってきたときには、こちらもまたさらに怒りに汚染されてしまうことになり候ふ。微量とはいえ、今後の心も言葉も行動もすべて、怒りによって方向づけられることになってしまいます。これが怒りのループ。怒りの業の連鎖反応。
 だから、学校のお勉強で「自分の意見を言いましょう」なんて教えられたことなど、きれいに忘れるのがよろしかろ。怒りのループこそ、自分だけじゃなく周囲の人の目まで曇らせて、何もかもうまくゆかなくしてしまう元凶でありますれば。」

 上記で言っているように、怒りなどの負の感情というのはそれを抑えて終わりというものではなさそうです。負のエネルギーは自分では気がつかなくてもしっかり自分の内に蓄積されています。

 私たちは小さいときから、他人にはやさしくしましょう、と教えられてきています。でも他人というのは、自分の思い通りにに動かない都合の悪いことをしてる人には怒りを含んだ言葉をぶつけてきます。だからどうしても私たちの内には「怒り」のエネルギーが溜まっています。他人にやさしくしましょうといわれても、でも、この怒りのエネルギーはどうなるのでしょう。怒りのエネルギーは怒りのエネルギーとしてまた潜在意識の水面下から顕在意識の水面上に吹き出さない限り解消されません。

 キリスト教では、隣人に愛を示しなさい、と教えていますが、この自分の内に蓄積されている「怒り」のエネルギーについては何もいってません。ここが仏教と違うところです。仏教では、表面上自分の感情をコントロールしても、そこには何かわりきれないもやもやがあることに気がつきました。

 お釈迦さまは、菩提樹の下でさとりを得たとき、この「怒り」のエネルギーの対処の仕方をさとったのだと私は思います。