一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

諸法の仏法なる時節

2011年02月22日 | Weblog
 『正法眼蔵』「現成公案」の最初に次のように書かれています。

 「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。

 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」


 「諸法の仏法なる時節、」というのは、具体的なもの、不回互而成(ほかのものと取り替えることのできない)、私きり、個別に現れている、その時絶対的、不思量而現、分別(任意的、人為てき)を越えるもの、
 「万法ともにあらざる時節、」というのは普遍、回互、共通性、実体がない、個々の人を越えているものと一体になっているものを指していると言われています。

 私はこの文の解釈を整理術の視点から考えてみました。

 「諸法の仏法なる時節」とは、、対象をきちんと整理して、本当に大切なもの、すなわち優先順位一番のものを導き出して形にしている世界。 


 本当に必要なものを自問自答するということは、結果的には、いらないものを捨てることでもあります。この‘捨てる’という行為が難しい。なぜなら、それは自分のなかの‘不安との闘い’だからです。
 何がおこるかわからないという気持ちから、モノがたくさんあると人は安心するものです。逆に、モノを取り去ることを考えると、裸になってしまうような心もとない気持になる。さらに、一度手に入れたモノは、もったいないという思いも渦巻いて、なかなか捨てられなくなってしまう。こうして、捨てるというハードルはどんどん高くなってしまうのです。

 いらないものを捨てることができるのは、これぞという一つがあるがために、その他のものを捨てることができます。

 それが「阿頼耶識」の存在だと思うのです。唯識思想では、「阿頼耶識」はエネルギーの蔵であるといっています。

 氷に熱エネルギーを与えると融けて水になり、さらに与えると沸騰して水蒸気になるのは、気体のほうが液体よりもエネルギーが大きい状態で、液体のほうが固体よりもエネルギーが大きい状態だからです。

 エネルギーの大きさでものの相が変化します。エネルギーの大きさの変化=相の変化、といえると思います。私たちのエネルギーの大きさが本来あるべき大きさになったとき、相として、智慧になります。

 智慧によって今本当に必用なものの優先順番一番のものを教えてくれるので、私たちは全部捨てて安心していられるわけです。

 逆にエネルギーの大きさがそれより小さいと優先順位をつけられないものを見ているから、相として不安が生じ、ものが捨てられない状態になっています。


 「諸法の仏法なる時節」というのは、智慧によって現された優先順位一番のものなので、そのつどそのつど具体的に変わります。
 「万法ともにあらざる時節]というのは、その智慧を生みだす本来の大きさのエネルギーなので、それはどこにあっても、いつであっても、変わりません。
  
 『現成公案』の上記の文は以上のことをいっているのではないかと私流に解釈してみました。