一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

適当でいいや

2009年03月29日 | Weblog
 猫はもうご主人様の姿は見飽きたし、やることも大体察しがつくから適当にみていればいいや、ということはありません。

 猫は〈いま・ここ〉で焦点を合わせるべきことにぴたりと焦点を合わせます。猫は注意をむけることころと、注意をむけないところのメリハリが完璧です。私をみていたかと思っても、何か気になる物音がすると私からそちらの物音に焦点をぴたりと合わせます。私が呼んでも振り返りもせず物音がするほうに焦点を合わせています。

 猫が何か上の空で半分しか焦点の合ってない目でみつめられても可愛くない。猫がいろいろな思いにとらわれて目がきょときょとしてたんでは可愛くありません。いろいろな思いにとらわれますと、なかなか焦点が合わなくなります。常にあっちを向いたり、こっちを向いたりと、いっこうに定まりません。

 猫の100%私を見ている目がいとおしいと感じるのは、〈いま・ここ〉で焦点をあわせるべきことにぴたりと焦点を合わせているのを見る心地よさと美しさがあるからではないかと猫をみていて気がつきました。
 
 自分のやっていることが猫のようにぴたりと焦点を合わせてやっているかと自問して、私も猫のようにそぎおとされた眼の美をねらっていけたらと思います。

真っ白い画面

2009年03月21日 | Weblog
 私はブログを書こうとするとまずYahooの今日のニュースが目にはいります。すると自分の興味がある記事を見たくなって、次から次ぎとなっていきます。でもダメダメ、自分のブログを書かなくてはと自分のブログの画面に戻ります。

 真っ白い画面に移る前に自分の興味のある記事をみたくなるということは、人の与えてくれた面白そうなことにとびついているほうが楽なのです。話でも誰かのことをああでもないこうでもないと喋っているほうが楽です。あっちの情報こっちの情報ととびついて動いているほうが確かに楽です。

 真っ白いパソコンの画面にむかって自分のなかから湧いてくるのか湧いてこないのかわからない自分の考えを待ってジッとしてるのより楽です。

 この記事を書いていたら、私は仏教というのは自分のこころのなかで真っ白い画面にむかって自分のなかから湧いてくる言葉を待っていることではないかとふと思いました。

 つねに真っ白い画面に向かっています。他人の情報の書かれた画面には向かってません。またついさっきの夫の腹の立つ行動は、今度これをやめさせるためにはどうしたらいいだろうとか、もう許せないから別のいやがらせをしてやろうという思いの書かれた画面には向かってません。今みているのは真っ白い画面です。

 仏教では人の与えてくれた面白そうなことには基本的にはとびつかず、みんな切っていきます。また起きた事にたいしどうしたらいいだろうという思いもみんな切っていきます。

 瞬間瞬間真っ白い画面に向かいます。

 真っ白い画面というのは 自分を取り巻いているひかりや空気の感じです。情報や思いをリセットしてまずひかりや空気を感じる真っ白な画面だします。それを沈黙してじっとみていることによって内より浮かんでくることを待ちます。

 外的世界の環境と、内的世界の生命とは分離したものではなく、環境にあるすべての分子は私たちの生命体の中を通り抜け、また環境へと戻る大循環の流れの中にあり、この局面をとってもそこには平衡を保ったネットワークが存在していると考えられるそうです。(註)

 環境と生命は分子レベルで一つの流れというのです。だから仏教でたよりにするのは、美しさとミラクルに満ちている言葉に表現できないようなひかりや空気を感じることと、そこから自分の内から浮かんでくることなのです。

註:福岡伸一「ロハスの思考」ソトコト新書 34頁参照

猫は後片づけをしない(困難)

2009年03月11日 | Weblog
 我が家の二匹の猫の上は図体は大きいのに人一倍気が小さいのです。3年前に4階から落ちて入院して自宅に帰ってきたとき、下の猫になわばりに見知らぬ猫が入ってきたと感違いされて殺さんばかりに追いかけられました。上の猫はひたすら逃げ回り真夏の一番暑いさなかに押入で一ヶ月身をひそめていました。上の猫にとっては自分が悪くて追いかけまわされているわけではなく、一方的に下の猫の勘違いなのに、暑くてもお腹がすいてもおしっこがしたくても我慢してじっと隠れていなくてはなりませんでした。

 それを見ていて一番エネルギーをつかわない困難に対する対処の仕方を教えてもらったような気がします。

 上の猫は眼の前にある現象をじっと見据えているだけです。そこには自分がありません。自分があればこの状況は嫌だとか、好きとかありますが、自分がないから眼の前の現象をじっと見据えて、その状況に対応するだけです。

 そこに自分があって、こんな状況は嫌だなといらいらしていては、余分なエネルギーを消費してしまいます。

 福岡伸一の本(註)に、「生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮するには、秩序を壊しつつ再構築するのに細胞は多大なエネルギーと栄養を必要とする」と書かれています。私たちの皮膚や髪の毛や全身の細胞が一つの例外なく、心臓や脳でさえ、日々、壊され、作り出されているというのです。肉体だけでなく、意識も一瞬一瞬壊され作り出されています。だから私が本来の私として生きていくには多大なエネルギーが必要なはずです。

 困難のときに適切な判断をすることは、「生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮する」と同義語ではないでしょうか。エネルギーが100%温存されていればその判断ができると思われます。

 上の猫は無駄なエネルギーをつかわず、眼の前の現象をじっと見据えて、相手にもやられない、自分も病気にならない一番良い時期をみて押入から出てきたと思われます。もしそこに自分があって先の不安や下の猫への怒りでいらいらしていては、はやく押入からですぎて下の猫にめためたにやられたかもしれないし、遅すぎて病気になっていたかもしれません。

註:福岡伸一「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」株式会社木楽舎 248頁