一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

器世間とエネルギー

2010年08月19日 | Weblog
 東京から新幹線に乗ると何時何分に京都に着くというように、自分に関係なく回りの世界は厳然と動いている、というのが当たり前の考えです。でも唯識の場合、自分の回りの世界=器世間は実に意識下の阿羅耶識のなかに維持されていると見ます。

 私はなんで自分の回りの世界を阿羅耶識の中に入れるのか、ずっと疑問でした。そこに大切な意味があるから、そうしたに違いないとずっと考え続けていました。

 その問題にヒントを与えてくれたのがギリシア神話のシーシュボスの神話です。

(神々がシーシュボスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい刑罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(カミュ『シーシュボスの神話』清水徹訳))(註1)

 神々がシーシュボスに課した刑罰というのは、私たち人間に与えられた刑罰でもあります。

 私たちは、酸素のあるこの地球に生まれてきて、細胞は必死になって、酸化され、変性され、分解されようとしているその魔の手に先回りしようとしています。先回りして、エントロピー増大の法則が秩序を破壊する前に、エネルギーを駆使してまで自ら率先して自らを破壊する。その上ですぐにタンパク質を再合成し、秩序を再構築する。エントロピー=無秩序が、秩序の内部に蓄積されるのを防いでいるのである。生きているとは実にこのようなエネルギーと情報の振幅運動に他ならない。かろうじて、この自転車操業を維持する限りにおいて、生命はその秩序を維持することができる。(註2)

 神々が人間に与えた刑罰というのは、酸化だったのです。酸化は休み無く私たちを襲ってきますから、つねに私たちは自転車をこぎ続けなければなりません。

 私たちが思い描いている天国、女をはべらかせて酒を飲んで遊んで暮らせるという理想の世界からは真逆の、重い岩を山頂まで転ばせて運んでいかなくてはならないという苦の世界に私たちはいるわけです。

 私たちは岩ころがしから逃れることばかりを考えます。でも、猫をみていると苦も楽もなく岩ころがしをやっているように私には思えます。猫の苦も楽もなく行動そのものになりきっている状態を、道元のいっている「身心脱落(しんじんだつらく)」ってこういうものかなと思わさせられます。

 「身心脱落」のことを、道元は『正法眼蔵現成公案』で「仏の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の酥酪を参熟せり。」(真実をさとれば大地は黄金であり、揚子江は酥酪=牛乳を煮つめて作る美味の飲み物である。)といっています。ギリシア神話では生きることを刑罰といったけれども、道元はこの世はその刑罰を黄金や酥酪のようにすばらしいものに変換できうると私たちに提示してくれています。

 この「身心脱落」はこれだ、とはっきり分からせてくれたのは、福岡伸一氏のこの言葉です。

 「媒体に包まれているものが、媒体と同じ速度で動いているとき、媒体の存在を知るすべはない。」

 「私たちは媒体の中に浸されて、媒体とともに動く。水の中に生まれ、水とともに過ごす魚たちとも同じ。魚は水の存在に気づかない。なぜか。彼らが巡航しているからである。彼らが等速運動をしているからである。媒体に包まれているものが、媒体と同じ速度で動いているとき、媒体の存在を知るすべはない。」(註3)

 電車に乗っていて、窓の景色も電車に乗っている自分と同じ速度で動いていれば、自分が動いているということに気がつきません。
 
 修行をするのは、媒体と同じ速度になるためです。「身心脱落」とは媒体と同じ速度で自分が動いているから、媒体の存在を知らないということなのです。

 刑罰から逃れられる唯一の方法は、岩ころがしをやめることではなく、岩ころがしのエネルギーと同じエネルギーがあれば、岩ころがしをしていることすら知らないでいられる、ということです。

 阿羅耶識は固体存在の基盤となるエネルギーの蔵だとも言えるそうです。阿羅耶識はその中に環境世界と身体が維持され、種々の主観の作用もその阿羅耶識にもとづく、と見られています。いわば、身体(器官)を焦点として、環境と主体とが交渉する、その全体が、阿羅耶識によって維持されており、その全体が一人の人、個だというのです。(註4)
 
 ということは、感覚器官を焦点として環境と主体が交渉することで阿羅耶識のエネルギ
ーが増えたり減ったりしていることになります。とらが獲物をつかまえるとき、眼で獲物をみるやいなやものすごいエネルギーがわいてきて獲物に向かわせます。反対にパソコンでどうでもいいようなものを見ているときは、どうもエネルギーが減っているような気がします。
 
 阿羅耶識に回りの世界をいれたのは、回りの世界が阿羅耶識のエネルギーと関係しているからで、阿羅耶識のエネルギーの量こそが、苦を感じないでいられる唯一の鍵となるからだと思います。

註1:福岡伸一「世界は分けてもわからない」講談社現代新書 124頁
註2: 同上 142~143頁
註3:福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書 282~283頁
註4:竹村牧男「知の体系 迷いを越える唯識のメカニズム」校成出版社 78頁