一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ちからに焦点のこころ

2016年12月02日 | Weblog
 2016年のノーベル賞を受賞した大隅良典氏の研究テーマの「オートファジー」がとても私の興味をそそりました。「オートファージー」は細胞の自食作用という意味で、細胞が自らのタンパク質などを分解して再利用する仕組みだそうです。

 どこに興味をそそられたかというと、自らのタンパク質を分解してまたその分解したタンパク質を再利用することは、なにも減らしてないし、なにも増やしてないという点です。ものを使い捨てにして新しいものを簡単に買うことではなく、今使っているものを、部品に分解して、また新たにその部品を使ってなにかを再構築する。その仕組みには、ごみをださなくてもいいし、また、よそからあらたなものをもってくる苦労もありません。

 これを読んでいて、では、こころのゴミって何かと考えました。仏教では、顚倒といって逆さまにとらえてしまうことが煩悩を生みだす原因とされます。この顚倒をゴミといえばいえるような気がします。このことってどういうことなのかとずっと私なりに考えていました。楽しいととらえていることが、実は苦しみであるということを。そうしているうちに、ふとこういうことをいっているのではないかと思いました。私は好きなほうを選び嫌いなほうは避けようとします。これって好きなことを選ぶのは、好きでないことを選ばなければいけないときにいやだなと感じるこころも同時につくっているのではないかと思いあたりました。楽しければ楽しいほど、楽しくないものに対する反発心も同時に潜在的につくっているのではないかと。楽しいと自分では感じているけれども、じつは苦しみを作りだしているのだと。。

 その潜在的につくられた反発心は最初は気がつかなくても、ある日その嫌なものに直面したとき、自分でもコントロール不可能な反発力となって現れます。その反発力には不安だったり、どうしようどうしようという焦りだったり、怒りなどが含まれます。

 私は、この反発力はちからを持つこころだと思うのです。重い濁っているちからを持つこころです。不安や怒りや焦燥感というのは、自分に向かって攻撃していくちからです。

 うちの猫をみていると、この反発心がないようにみえます。猫は自分の内なる声だけに従ってそれ以外のあらたなものはよそからもってきません。だから猫の目をみていると、こころの重さや濁りはみられません。

 上記のオートファジーの記事を読むと、猫はオートファージーに忠実にしたがってゴミをださないで生きているけれども、私は、今ここですべて満たされているのに、物足りないよと余計なものをよそからもってきて重い濁っているちからをもつこころのゴミをふやしているような気がします。