一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

意業

2014年11月29日 | Weblog
 私が最近仏教の教理のなかで一番面白いのは、「縁起」の考え方ではないかと思って、その考え方にはまっています。「縁起」の考え方というのは、私なりの解釈では、何かあるものが大前提にあって、常にそれとの相対性によって私たちのあり方が決まるという考え方です。

 私たちが生まれる前から、そのあるものはあった。そのあるものからたまたまいろいろな条件が揃うことによって生物は生まれてきました。キリスト教の神みたいにまず神があって、その後にいろいろなものが生まれてきたのであれば、私たちのあり方は何かと相対させなくてもいいでしょうけれども、私たちはそうではありません。

 条件が揃ってあるもののなかから生物は生まれてきたのですから、私たちの大前提はそこにあるわけです。それとの関係性なくしては、私たちの存在は考えられないことになります。

 条件が揃ってそのあるもののなかから生物はたまたま生まれてきたということは、そのあるものの側からすれば、私たちに条件をだしたことになります。わたしたちが勝手に条件をつくったわけではなく、私たちはそれのだした条件に無条件に従わざる得ないようにつくられているわけです。死ぬまでその条件下のもとでしか生きられない。

 だから、その条件に合わないことをすれば淘汰されるようになっています。「縁起」の考え方からすれば、条件に合わないことをしたときは何らかの影響力があるということです。それを仏教では「業」といいます。

 それでは,その「業」はいつつくられるのかというと、『唯識二十論』につぎのようにいわれています。

「如何が、此業に由って、心の重罰の大罰なるは、身口の重罰よりも、劇しとなさんや。」

 業には心業といって心のはたらき・一切の思念をすることによって作る業と、身業といって行動することによって作る業と、口業といって、なにか言うこよって作る業とがあります。『唯識二十論』では、その3つの業のなかで心業が一番重い罪だといっています。

 意業が一番重い罪だから一切の思念をするな、といわれても、それは不可能なことなのですが、上記の私たちが生まれて来るために必要だっ条件に、言葉によってつくられた思考というものに対する警告が含まれていると思います。私たちは条件のなかでしか生きられないなんていやだよ、自分の好きなように言葉をつかって考えたいよ、といって、その根源的なものを無視していろいろアタマで考えるわけですが、「縁起」というのは、常に自分を生みだした根源的なものと自分とを相対させてその根源的なものが私たちに語りかけてくることを聞こうとすることです。それを可能にするのは沈黙であって、言葉ではありません。