一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

言葉は仮にたてるもの

2009年05月30日 | Weblog
 言葉は仮にたてるものだという言葉をみつけました。本物が出来上がるまで仮につかうけれども、本物が出来上がったらもう毀してしまうものです。ということは言葉は、本物がみつかったときは必要なくなります。

 言葉は仮にたてるものなのに、私たちは仮にたてた言葉の上に起こす所の実際有ると思う妄想 にふりまわされています。

 たとえば、「私は価値がある」という刺激を求めてのエネルギーで私たちは動いているようにみえます。学問を必死になってやることもあれば、人助けを一所懸命にやることもあります。

 それは、こうだから私は価値があるという、言葉がその人の行動のエネルギー源になっている場合には、もうそれは仮にたてた言葉の上に起こす所の実際有ると思う妄想にふりまわされていることです。

 妄想にふりまわされている人かどうかの証拠は、言葉でつっついてぐらつくかどうかです。私はこうだから価値がある、と思っている価値をあんたはそんな価値がないよ、といろいろなカタチの言葉で言われてぐらつくときは言葉が実際有ると思ってしまっているときです。

 言葉は仮にたてるもので本物がみつかったときは言葉は必要なくなります。あんたはそんな価値がない、と言葉で言われてもぐらつきません。だって本物がみつかってしまって、言葉はもう必要ないのですから。

 本物とは 「事 體事(ものがら)妄分別の戯論を離れる法相の體事」といわれています。言葉を離れてその静けさのなかから湧いてくるなにかです。命のもとめているのは言葉とは別のものです。

 私は単純に縁で目の前に現されたものを見ていて、自分のなかから湧いてくるやりたいこと、やるべきことをやっています。人にどんな嫌なことを言われても言葉よりも目の前に現されたことを大事にします。目の前に現されたものは言葉ではぐらつきませんから。

簡素の原点

2009年05月17日 | Weblog
 日本のお寺は簡素さを美とします。キリスト教国教会はいろいろな装飾がついています。

 日本のお寺は「空」をあらわし、キリスト教会は聖書をあらわしているようにみえます。

 仏教は言葉にしがみついた瞬間に「空」尽界はとらえられないとします。

 逆に聖書は言葉そのものです。

 言葉にしがみつくかつかないかが、簡素な生活ができるかどうかにつながるというヒントが隠されているような気がします。

 今日の朝おきて窓の外を見たら雨が降っていました。私は雨の降っている空気感が好きです。昨日は朝起きて窓の外をみたら大風が吹いた後で空気が澄み切っていて、私の目が別人の目のように目の前の景色が澄んで見えました。

 私は朝起きて窓の外を見て四季の空気感を感じ、鳥が鳴いてたり木々の葉っぱが揺れていたりするのを見たり聞いたりするだけで、これ以上なにを望むことがあるんだろうとふと思ったりします。

猫は後かたづけをしない(寂静の世界)

2009年05月07日 | Weblog
 猫をみていると寂静の世界にいます。猫が自分でどうにかしなかくては、と焦燥にかられてる思いをしているのをみたことがありません。

 自分でどうにかしなくては、と焦燥にかられると、自分がこの世の中で一人しかいないような孤独感や、真っ暗な袋に閉じこめられたような閉塞感を感じます。私はそういう焦燥感や閉塞感がいやで、猫はどうしてこの焦燥感や閉塞感がないんだろうと猫を観察してしまいます。

 猫を見て気がついたのですが、猫は自分でどうにかしなくてはと焦燥にかられる代わりに、常に目の前のことをジーッと見ています。

 猫が目の前のことをジーッとみているのは、猫が縁の世界にいるからではないかと思ったのです。縁の世界は私たちをとりまく流れに逆らわず生きていくことです。だから目の前のことをジーッとみてなくてはなりません。流れに逆らわずに流れにまかせていくことで自分の100%のエネルギーがだせます。猫をみていると自分が100%のエネルギーをもっていれば自然に内から智慧や行動力が現れてくるのがどんなものかとわかります。智慧や行動力が内から自然に湧いてくることを信じられれば自分でどうにかしなくてはと焦燥にかられません。
 
 私はこの自分でどうにかしなくてはの焦燥感がいやなので、自然に湧いてくる智慧や行動力のためならば、猫のように旅行にいかなくてもいい、そんなにおいしいものを食べなくてもいい、人に褒められなくてもいい、ただ寂静の世界にいたいと思います。

 自分でどうにかしなくてはがいやで、煩わしいものを避けて寂静の世界を作ろうとしても、後片づけをしなくてはならないようになります。後片づけをしない寂静の世界をつくるためには縁の世界を探すしかないように思うのですが。