一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(刹那消滅)

2018年12月03日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 なんで一点にシューッと束ねられているのを見るとこころが落ち着くのかと考えていたら、ああそういうことかと思いつきました。

 それは、この宇宙もビッグバンの一点からでてきたといわれていますし、私たち生物も最初は一個の細胞から細胞分裂してできています。また、一個の電子がいろいろな形、りんごや恐竜や魚や両生類に生り変わりしているといわれています。

 このようにある一点から規則性をもっていろいろ広がっているから、その起源の一点をみるとこころが落ち着くのかと納得します。

 では、この一点に束ねられている一点は何かと考えてみるに、わたしは「刹那生滅」が思い当たりました。仏教の旗印である三法印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の一つです。

 「刹那生滅」とは瞬間瞬間滅してはまた生ずることです。私たちは酸素のあるこの空気のなかで生き延びるために瞬間瞬間酸化される前に自らを壊してまた再構築するという手段をとってきたといわれています。だから、何もつかむことができません。つかんだと思った瞬間もうそれは壊されてなくなっていて別のもの生まれ変わっているのですから。

 だから、目に見えるものや耳に聞こえるものはそのままでは「刹那生滅」の一点にシューッと束ねられません。それらは「刹那生滅」ではありませんから。また言葉も束ねれません。言葉は次の瞬間あるという前提につかわれているからです。

 それに関連して、次の映像を思い浮かべました。それは、動物病院でみたイタリアのシチリアかどこかの島の猫の映像です。ねこが海辺で犬に吠えられてシャーと戦っている映像です。犬と海の間でもうすこし犬に追い詰められれば海に落ちてしまいそうです。でも猫は必死で抵抗しています。そうしているうちに、犬の飼い主が移動したので犬もあきらめてあっちに行ってしまいました。猫がそのすきに去って行く姿に「ああ、ほっとした。」感があって暖かい思いになりました。

 それに比べて、人質にされた安田純平氏の報道が「自己責任」「自己責任」と言われてるのを見てなんかいやな後味が残りました。

 猫の犬と必死になっている姿は「刹那生滅」です。でも、安田純平氏のは、「刹那生滅
」ではない「言葉」です。

 仏教では、「刹那生滅」をぬきにしては、無因といって、大馬鹿者扱いにされます。「言葉」も「刹那生滅」と関係づけてはじめて「言葉」としてつかわれます。わたしは、シューッと束ねられている「刹那生滅」という一点をみつめてそれに関連付けてものごとをみていきたいと思います。そこには、かならず暖かいものがあるような気がするので。